語呂合わせ
祝い群(1016)なす、藤原道長の摂政就任
藤原道長は、後一条天皇の摂政の地位に就き、藤原氏による摂関政治を最盛期へと導きました。
目次
藤原道長の系譜
藤原道長は藤原北家の出身で、父は藤原兼家。兄に藤原道隆・藤原道兼がいます。
北家とは、藤原四兄弟の次男・藤原房前を祖とする家系です。
兼通と兼家の兄弟の争い
道長の父、兼家
藤原兼家は、兄の藤原兼通と政権を争った末、ようやく権力を手に入れました。
その地位は、子の藤原道隆が継ぎます。
藤原道隆
道長の兄、道隆
990年、藤原道隆(藤原道長の兄)が一条天皇の摂政となります。
道隆は、娘の定子を一条天皇の中宮にすることに成功します。
定子には、清少納言が仕えていました。
995年に、道隆が亡くなると、その子・藤原伊周が後継として関白を目指します。
しかし、一条天皇の不興を買ってしまい願いは叶いませんでした。
七日関白、道兼
「七日関白」道兼
兄・藤原道隆の死後、一条天皇の関白に就いたのが、その弟の藤原道兼です。
道隆の子の伊周は、一条天皇の不興を買っていたため、関白につけませんでした。
しかし、道兼はわずか7日で病死してしまい、「七日関白」と呼ばれました。
この出来事により、伊周と道長の間で激しい権力争いが勃発します。
道長のライバル ― 藤原伊周と藤原隆家
道長の最大の政敵が、兄・道隆の子である藤原伊周と、その弟・藤原隆家です。
彼らは若くして才能を認められ、道長にとっては脅威でした。
花山法皇 襲撃事件
花山法皇
特に伊周は、当初は有力な後継候補でしたが、花山法皇に矢を射た事件(伊周・隆家兄弟が関与したとされる)をきっかけに失脚します。
藤原伊周は太宰府に、藤原隆家は出雲へ左遷されました。
藤原隆家は、のちに刀伊の入寇で活躍します。
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これにより、道長が藤原氏の実権を完全に掌握することになります。
道長、摂政となる
道長は娘・彰子を一条天皇の中宮とし、これまで中宮であった定子(藤原道隆の娘)は、皇后になりました。
中宮彰子には、紫式部が仕えていました。
やがて中宮彰子の子である後一条天皇が即位。
こうして1016年、藤原道長は後一条天皇の摂政に就任します。
摂政の地位に就いたことで、道長は政権の頂点に立ちます。
氏長者 ― 藤原氏の統率者
道長は、藤原氏全体の統率者である「氏長者」の地位にも就いてました。
藤原氏の氏長者は、興福寺、春日神社、勧学院を管理しました。
興福寺
興福寺
興福寺は、藤原氏の氏寺です。
春日神社
春日神社は、藤原氏の氏社です。
勧学院
勧学院は、藤原氏の大学別曹です。藤原冬嗣によって創建されました。
法成寺の建立
道長は自らの権威を示すために、多くの文化・宗教事業にも力を入れました。
その代表が、1020年に完成した大寺院法成寺の建立です。
御堂関白の異名
これはのちに「御堂殿」とも呼ばれ、道長のあだ名「御堂関白」の由来となりました。
道長は「御堂関白」のあだ名を持っていましたが、実際には関白にはなっていません。
こうした事業は、貴族文化の発展にも大きく貢献しました。
摂関政治の最盛期
藤原道長の時代は、摂関政治が最も栄えた時期とされます。
道長の4人の娘たちは次々と天皇の妃となり、皇族との結びつきを強めました。
- 長女・彰子 … 一条天皇の妃
- 次女・姸子 … 三条天皇の妃
- 三女・威子 … 後一条天皇の妃
- 六女・嬉子 … 御朱雀天皇の妃
小右記 ― 望月の歌
また、右大臣の藤原実資の『小右記』には、彼の権勢ぶりが詳細に記録されており、有名な和歌「望月の歌」にその自信と栄華が表れています。
此の世をば我が世とぞ思ふ望月の かけたることも無しと思へば
(この世は私のためにあるようだ。満月のように欠けている部分がないのだから。)