藤原道長は、摂政の地位に就き、藤原氏による摂関政治を最盛期へと導きました。
目次
藤原家の系譜と道長の出世
道長の父、兼家
藤原道長は藤原北家の出身で、父は藤原兼家。兄に藤原道隆・藤原道兼がいます。
父・兼家は藤原兼通と政権を争った末、ようやく権力を手に入れました。
兼家の子である道隆が関白となった後、その子・伊周が後継を目指しましたが、道長が巧みに台頭していきます。
「七日関白」道兼
「七日関白」道兼
兄・道隆の死後、関白に就いたのが藤原道兼です。
しかし、彼はわずか7日で病死してしまい、「七日関白」と呼ばれました。
この出来事により、伊周と道長の間で激しい権力争いが勃発します。
道長のライバルたち 〜藤原伊周と藤原隆家〜
道長の最大の政敵が、兄・道隆の子である藤原伊周と、その弟・藤原隆家です。
彼らは若くして才能を認められ、道長にとっては脅威でした。
花山法皇 襲撃事件
花山法皇
特に伊周は、当初は有力な後継候補でしたが、花山法皇に矢を射た事件(伊周・隆家兄弟が関与したとされる)をきっかけに失脚します。
藤原隆家は、のちに刀伊の入寇で活躍します。
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これにより、道長が藤原氏の実権を完全に掌握することになります。
道長、摂政となる
道長は娘・彰子を一条天皇の中宮とし、やがてその子である後一条天皇が即位。
こうして1016年、道長は摂政に就任します。
摂政の地位に就いたことで、道長は政権の頂点に立ちます。
中宮彰子には、紫式部が仕えていました。
藤原氏の栄華と「氏長者」
道長は、藤原北家の頂点である「氏長者」の地位にも就いており、政治・家格ともに最高位に立っていました。
「御堂関白」と法成寺の建立
道長は自らの権威を示すために、多くの文化・宗教事業にも力を入れました。
その代表が、1020年に完成した大寺院法成寺の建立です。
これはのちに「御堂殿」とも呼ばれ、道長のあだ名「御堂関白」の由来となりました。
道長は「御堂関白」のあだ名を持っていましたが、実際には関白にはなっていません。
こうした事業は、貴族文化の発展にも大きく貢献しました。
摂関政治の最盛期
藤原道長の時代は、摂関政治が最も栄えた時期とされます。
道長の娘たちは次々と天皇の妃となり、皇族との結びつきを強めました。
「小右記」に見る道長の栄華
また、『小右記』には、彼の権勢ぶりが詳細に記録されており、「此の世をば我が世とぞ思ふ望月の かけたることも無しと思へば」という有名な和歌「望月の歌」にその自信と栄華が表れています。