1016年 藤原道長の摂政就任

藤原道長
藤原道長
語呂合わせ

祝い群(1016)なす、藤原道長の摂政就任

藤原道長ふじわらのみちながは、摂政せっしょうの地位に就き、藤原氏による摂関政治を最盛期へと導きました。

目次

藤原家の系譜と道長の出世

藤原兼家
道長の父、兼家

藤原道長は藤原北家ほっけの出身で、父は藤原兼家ふじわらのかねいえ。兄に藤原道隆ふじわらのみちたか藤原道兼ふじわらのみちかねがいます。

父・兼家は藤原兼通ふじわらのかねみちと政権を争った末、ようやく権力を手に入れました。

兼家の子である道隆が関白となった後、その子・伊周これちかが後継を目指しましたが、道長が巧みに台頭していきます。

「七日関白」道兼

藤原道兼
「七日関白」道兼

兄・道隆の死後、関白に就いたのが藤原道兼です。

しかし、彼はわずか7日で病死してしまい、「七日関白なのかかんぱく」と呼ばれました。

この出来事により、伊周と道長の間で激しい権力争いが勃発します。

道長のライバルたち 〜藤原伊周と藤原隆家〜

道長の最大の政敵が、兄・道隆の子である藤原伊周ふじわらのこれちかと、その弟・藤原隆家ふじわらのたかいえです。

彼らは若くして才能を認められ、道長にとっては脅威でした。

花山法皇 襲撃事件

花山法皇
花山法皇

特に伊周は、当初は有力な後継候補でしたが、花山かざん法皇に矢を射た事件(伊周・隆家兄弟が関与したとされる)をきっかけに失脚します。

藤原隆家は、のちに刀伊とい入寇にゅうこうで活躍します。

これにより、道長が藤原氏の実権を完全に掌握することになります。

道長、摂政となる

道長は娘・彰子しょうし一条いちじょう天皇中宮ちゅうぐうとし、やがてその子である後一条ごいちじょう天皇が即位。

こうして1016年、道長は摂政に就任します。

摂政の地位に就いたことで、道長は政権の頂点に立ちます。

中宮彰子には、紫式部が仕えていました。

藤原氏の栄華と「氏長者」

道長は、藤原北家の頂点である「氏長者うじのちょうじゃ」の地位にも就いており、政治・家格ともに最高位に立っていました。

「御堂関白」と法成寺の建立

道長は自らの権威を示すために、多くの文化・宗教事業にも力を入れました。

その代表が、1020年に完成した大寺院法成寺ほうじょうじの建立です。

これはのちに「御堂殿みどうどの」とも呼ばれ、道長のあだ名「御堂関白みどうかんぱく」の由来となりました。

道長は「御堂関白」のあだ名を持っていましたが、実際には関白にはなっていません。

こうした事業は、貴族文化の発展にも大きく貢献しました。

摂関政治の最盛期

藤原道長の時代は、摂関政治が最も栄えた時期とされます。

道長の娘たちは次々と天皇の妃となり、皇族との結びつきを強めました。

「小右記」に見る道長の栄華

また、『小右記しょうゆうき』には、彼の権勢ぶりが詳細に記録されており、「此の世をば我が世とぞ思ふ望月の かけたることも無しと思へば」という有名な和歌「望月もちづきの歌」にその自信と栄華が表れています。

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