語呂合わせ
刀伊、来(1019)るぞ、刀伊の入寇
刀伊の入寇とは、刀伊と呼ばれる女真族の海賊が、対馬・壱岐・九州北部に襲来した事件のことです。
太宰権帥を務めていた藤原隆家が武士団を率いて撃退しました。
この記事では、刀伊の入寇について整理し、高校日本史で問われやすいポイントをわかりやすく解説します。
目次
刀伊とは
刀伊とは、中国東北部の沿海州地方に住んでいた女真族の一派ことです。
高麗の人々が呼んでいた東夷(東の夷狄)を日本の文字であてたものと考えれらています。
刀伊の入寇では女真族の海賊の集団が、組織的な略奪を目的に50艘余りの船団で日本へ襲来しました。
対馬・壱岐・九州北部を襲撃
1019年、刀伊の海賊団は、対馬・壱岐を襲撃。この地域の人々を大量に殺害・拉致しました。
特に、女性や子どもを中心に数百人が連れ去られたと記録されています。
その後、九州北部の筑前(現在の福岡県)にも上陸し、襲撃を試みますが、ここで大きな反撃に遭います。
太宰権帥・藤原隆家の奮戦
当時、九州の防衛拠点である太宰府の責任者が、太宰権帥である藤原隆家です。
藤原隆家は、藤原道長の甥です。
隆家は、かつて「花山法皇襲撃事件」に関わった人物です。
藤原道長と敵対し、出雲に左遷されましたが、その後、九州の太宰府に赴任します。
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刀伊の入寇では、隆家は、九州の武士団と協力して九州北部の防衛に当たります。
筑前に上陸してきた刀伊を撃退し、多数の敵船を拿捕・撃破するなど、大きな戦果を上げました。
武士団の活躍
この事件は、日本における武士団の初期的な活躍が記録された重要な事例でもあります。
特に九州北部の地方武士が、太宰府と連携して外敵の防衛に参加し、戦闘能力を発揮した点が注目されます。
事件後の対応
刀伊の入寇によって連れ去られた日本人の一部は、高麗によって保護され、日本に返還されました。