107年 帥升、後漢に生口を献上

後漢書
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語呂合わせ

人を並(107)べて、帥升が生口を献上

覚え方

107年の帥升の生口の献上は、57年の奴国王の金印の「50年後」である。

107年の帥升の生口の献上は、607年の遣隋使の派遣の「500年前」である。


  • 57年 奴国王、光武帝より金印を授かる
  • 107年 帥升、後漢に生口を献上
  • 607年 遣隋使の派遣

倭国王の帥升すいしょうらが、後漢ごかん安帝あんてい生口せいこう(奴隷)160人を献上しました。

帥升は、歴史書に名前が記録された最初の日本人として有名です。

目次

謎の人物、帥升

帥升は、1世紀後半から2世紀初頭にかけて存在したとされる倭国の王です。

倭国とは、当時の中国が日本列島やその周辺地域を指して呼んだ名称です。

しかし、実は帥升についてわかっていることは非常に限られています。

『後漢書』東夷伝に残る記録

中国の史書『後漢書ごかんじょ東夷伝とういでんに記録されているのは、「安帝の永初元年(107年)、倭国王帥升等、生口百六十人を献じ、請見を願う」という短い記述のみです。

この一文から、わかるのは「後漢の安帝の時代に、倭国王の帥升たちが、奴隷160人を献上して、謁見を願った」ということだけです。

なぜ帥升が重要なのか

帥升が日本史上重要な人物である理由は、帥升が歴史書に名前が記録された最初の日本人だからです。

それまでも倭国に関する記述はありましたが、具体的な王の名前が記されたのは帥升が初めてでした。

後漢王朝と安帝の時代

帥升が使節を送った相手は、中国の後漢王朝の安帝でした。

後漢は25年〜220年まで続いた王朝で、前漢ぜんかんの滅亡後に劉秀りゅうしゅう光武帝こうぶてい)が建国した王朝です。

安帝の時代は、後漢の中期にあたり、比較的安定した時期でした。

この時期の後漢は、周辺諸国との朝貢関係を重視し、東アジア地域の国際秩序の中心として機能していました。

生口160人の献上

帥升が後漢に献上したのは生口160人でした。「生口」とは、現代的に言えば奴隷のことです。

これだけの人数を献上できたということは、帥升が権力と経済力を持った統治者であったことを示しています。

また、当時の倭国が他の地域との戦争や交易を通じて、多くの人々を支配下に置いていたことも推測できます。

倭国大乱の時代へ

帥升の後、2世紀後半に「倭国大乱」と呼ばれる政治的混乱が起こります。

これは『魏志倭人伝』に記録された内戦状態で、数十年続いたとされています。

最終的には、卑弥呼が女王として登場し混乱を収めることになります。

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