語呂合わせ
文、来(239)るよ、卑弥呼、魏に遣使
倭の邪馬台国の女王 卑弥呼は、魏の都 洛陽に使いを送り、魏の皇帝から「親魏倭王」の金印、銅鏡などが送られました。
目次
倭国大乱 ― 乱れる倭国
2世紀後半の日本列島は、各地に小国が点在し、互いに争いを繰り返していました。
『後漢書』東夷伝によると、倭国(日本)は「倭国大乱」と呼ばれる長期間の戦乱状態が続いていたとされています。
邪馬台国の女王 卑弥呼
この混乱を収めるために邪馬台国の女王として人々が推戴されたのが、卑弥呼です。
卑弥呼は、鬼道という呪術による宗教的な力を使って人々をまとめた巫女のような存在だったとされています。
男弟との分業体制
また、政治は男弟(卑弥呼の弟)と協力して行なっていました。
男弟は実際の政務を担当し、卑弥呼は宗教的権威として君臨するという分業体制でした。
身分制度
邪馬台国の身分制度には以下のようなものがありました。
- 大人:支配者階級
- 下戸:非支配者階級
- 一大卒:同盟国の監督官
- 大倭:市場の監督官
卑弥呼、魏に使いを送る(239年)
239年、卑弥呼は当時、中国大陸で勢力の強かった魏に、難升米という者を使者として派遣しました。
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帯方郡を通じた外交
この遣使は、朝鮮半島の帯方郡を経由して行われました。
帯方郡は魏が朝鮮半島に設置した郡で、日本と中国大陸を結ぶ重要な中継地点でした。
使者として派遣された難升米は、魏の皇帝に貢物を献上し、卑弥呼の存在と邪馬台国の権威を中国の王朝に認めてもらおうとしました。
親魏倭王の称号
これに対し、魏の皇帝は「親魏倭王」の金印や銅鏡100枚を卑弥呼に与えました。
邪馬台国の使者と会ったのは、第2代皇帝である明帝(曹叡)または第3代皇帝である曹芳といわれています。
代替わりのタイミングであったため、説が別れています。
曹叡は、魏の初代皇帝である文帝(曹丕)の長男です。
親魏倭王とは何か?
「親魏倭王」とは、魏が卑弥呼を「魏と親しい倭の王」として正式に認めた称号のことです。
この称号を得たということは、魏の政治的な後ろ盾を得た意味合いを持ちました。
魏に遣いを送った理由
邪馬台国が魏に遣いを送ったのは、魏の支援を得ることで、対立する狗奴国よりも有利な立場に立とうとしたためです。
狗奴国の王は卑弥弓呼と呼ばれる男の王でした。
また、魏の権威を背景に国内外での政治的地位を強化しようとしました。
三角縁神獣鏡
卑弥呼が、魏から下賜された銅鏡は、日本各地の古墳から発見される「三角縁神獣鏡」が有力な候補として考えられています。
この鏡の発見の分布は、邪馬台国の勢力範囲や影響力を示す可能性があります。
卑弥呼の死
卑弥呼の死後、大きな墓が造られ、奴婢100人余りが殉葬されたと伝わります。
その後、邪馬台国では一時的に男の王が立てられましたが、国内が再び混乱しました。
壱与の擁立
国内の混乱を治めるため、卑弥呼の宗女(一族の女性)である13歳の少女壱与(台与とも書く)が女王として立てたところ、国内の平和が回復したとされています。
魏志倭人伝
魏志倭人伝
卑弥呼や邪馬台国に関する記録は、中国(晋)の歴史家の陳寿が編纂した歴史書『三国志』の一部である『魏志倭人伝』に記されています。
魏志の中の倭人に関する記述部分を『魏志倭人伝』と呼んでいます。
邪馬台国論争
『魏志倭人伝』には「魏の都・洛陽からの行程」が詳細に記録されており、それを手がかりに「邪馬台国はどこにあったのか?」という議論が続いています。
有名なものに、九州説、近畿説、邪馬台国東遷説があります。
九州説
吉野ヶ里遺跡
九州説は、邪馬台国が九州地方にあったとする説です。
九州説では、福岡県や佐賀県の吉野ヶ里遺跡周辺が候補地として挙げられています。
近畿説
箸墓古墳
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近畿説は、邪馬台国が近畿地方にあったとする説です。
近畿説では、奈良県の纒向遺跡や箸墓古墳が有力な候補地とされています。
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