幸先(313)いいぞ、ミラノ勅令
コンスタンティヌス帝は、リキニウス帝と連名でミラノ勅令を発布し、すべての宗教の信仰の自由を認め、キリスト教を公認しました。
この記事では、ミラノ勅令について整理し、高校世界史で問われやすいポイントをわかりやすく解説します。
ディオクレティアヌス退位後の混乱
軍人皇帝時代の混乱を収束させるため、ディオクレティアヌス帝は、四分統治(テトラルキア)と専制君主政(ドミナトゥス)を開始しました。

しかし、彼が退位すると、皇帝位をめぐる争いが再燃し、帝国は再び内戦状態に陥ります。
ミルウィウス橋の戦い

この混乱の中、西の副帝であったコンスタンティヌスは、西の正帝を自称していたマクセンティウスと、西ローマの正当な支配をめぐって対立します。
312年、ローマ近郊で行われたミルウィウス橋の戦いにおいて、コンスタンティヌスは、マクセンティウスを破り、西の正帝としての地位を確立しました。
空に輝く十字架

なお、コンスタンティヌスは、この戦いの行軍中、「空に輝く十字架」を見て勝利を確信したといわれています。
これが後にキリスト教を公認するミラノ勅令の発布のきっかけの一つになります。
増え続けるキリスト教徒
キリスト教は1世紀に誕生し、迫害を受けながらもローマ帝国内に広がりました。
303年にはディオクレティアヌス帝による大迫害がありましたが、それでも信者の数は増え続けていきました。
ミラノ勅令 ― キリスト教を公認

こうした状況の中、西の正帝コンスタンティヌスは、東の正帝リキニウスと連名でミラノ勅令を発布します。
これにより、キリスト教を含むすべての宗教に信仰の自由を認めました。
コンスタンティヌス帝はキリスト教徒を迫害するのではなく、ミラノ勅令によって公認したのです。
なぜキリスト教を公認したのか
コンスタンティヌス帝が、内戦中に「キリスト教の神の加護により勝利した」と考えたことが背景にあります。
また、ローマ帝国を統制するために、キリスト教徒の支持を得ようとした政治的判断も大きかったと考えられています。
なお、コンスタンティヌス帝自身は、この時、キリスト教徒ではなく、死の直前に洗礼を受けました。
テトラルキアの崩壊

その後、西の正帝コンスタンティヌスと東の正帝リキニウスは、キリスト教への対応などで対立を深め戦争となります。
最終的に、コンスタンティヌス帝は、対リキニウス戦に勝利し、ローマ帝国唯一の皇帝になります。
これにより、テトラルキア(四分統治)は事実上、崩壊します。
キリスト教の教義統一へ
キリスト教は公認されたことにより、信者が急速に増え、ローマの中心的な宗教へと成長していきます。
しかし、教義をめぐる対立も深刻化しました。
この問題に対応するため、325年にニケーア公会議が開かれ、教義統一が図られることになるのです。

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