しなや(478)かな外交、倭王
倭王
この倭王武こそが、
「倭の五王」の時代
5世紀の日本列島は、ヤマト政権が強力な王権を築きつつある時期でした。
そんな中、中国南朝の宋に使者を送っていたのが、いわゆる「倭の
この五王とは、
それぞれの倭王が使者を送った年代は、次の通りです。
讃 :413年珍 :438年済 :443年興 :462年武 :478年
これらの王たちは、中国の皇帝から官位を授けられ、朝鮮半島における軍事行動の承認を求めていました。
なぜ中国に使者を送ったのか
倭王が中国の王朝に使者を送ったのは、朝鮮半島での軍事行動を正当化し、国内統治の権威を高めるためです。
当時、高句麗の南下政策により、倭と同盟関係にあった百済が圧迫されており、支援の承認を得ることが重要でした。
また、倭国の拠点があった任那(加羅)地域を防衛する必要がありました。
倭王武、宋に使者を送る
西暦478年、五番目の王「倭王武」が、当時の中国の南朝・宋の順帝に使者を送りました。
この外交によって、宋の順帝は倭王武を「
この称号は、東方(朝鮮半島・日本列島)の軍事統括権を意味する官位で、倭国が東アジアの地域大国として公認されたことを示しています。
倭王武=雄略天皇?
この「倭王武」は、古事記や日本書紀に登場する第21代天皇である雄略天皇と同一人物だと考えられています。
また、考古学的な根拠としては、
これらの銘文から、5世紀後半に「ワカタケル」という名の大王が実在し、九州から関東まで広範囲を支配していたことが判明しました。
雄略天皇の人物像
『日本書紀』によると、雄略天皇は非常に強権的な統治者でした。
兄弟や豪族を次々と粛清し、強力な王権を確立したとされています。
一方で、渡来人の技術を積極的に導入し、国力増強に努めたことでも知られています。