ゴツン、内(527)乱、
ヤマト政権から派遣された
筑紫国造磐井
ヤマト政権に従いつつも、九州全体を統率できるほどの実力を誇っており、朝鮮半島との交易の拠点である地の利を活かして、新羅との密接な関係を築いていました。
新羅の勢力拡大

Historiographer, KEIMS, CC BY-SA 3.0, via Wikimedia Commons
6世紀前半の朝鮮半島では、
ヤマト政権は、百済と同盟し、新羅や高句麗と対立。
特に新羅は、南部の
磐井が新羅と結んで反乱
ヤマト政権は、
しかし、軍が九州に到達した時、
この反乱は単なる地方の騒乱ではなく、外交的独自路線をとる地方豪族が、中央政権に反発した重大事件でした。
物部麁鹿火らが鎮圧

ヤマト政権は、磐井の乱に対して物部麁鹿火や

激戦の末、反乱は鎮圧され、磐井自身は戦死または自害したとされます。
その後、磐井の息子が、ヤマト政権に従うことを条件に、領地を保持することを許されたと伝えられています。
新羅の勢力拡大を許すことに
磐井の乱により、ヤマト王権の朝鮮半島政策は大きく後退。
近江毛野の派遣が阻止されたことで、新羅の勢力拡大を食い止める機会を失いました。
岩戸山古墳 ― 磐井の墓
福岡県
この古墳には、
これらは磐井が、ヤマト政権に匹敵する勢力を持っていたことを物語っています。