527年 磐井の乱

物部麁鹿火
反乱を鎮圧した物部麁鹿火
語呂合わせ

ゴツン、内(527)乱、磐井いわいの乱

九州北部の豪族である筑紫つくしのくにのみやつこ磐井いわいは、新羅しらぎと結んで反乱を起こしましたが、物部もののべの麁鹿火あらかひらによって鎮圧されました。

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筑紫国造磐井

磐井は、九州北部に勢力を持っていた地方豪族で筑紫国造と呼ばれる地位にありました。

ヤマト政権に従いつつも、独自の外交権や軍事力を持つ半独立的な立場にあり、九州全体を統率するほどの実力者でした。

当時のヤマト政権は、朝鮮半島にある任那みまな伽耶かや)の支配や新羅への遠征を進めようとしており、九州を出兵の拠点として利用していました。

磐井が新羅と結んで反乱

ヤマト政権は、朝鮮半島での勢力拡大のため、近江おうみの毛野けぬを新羅征討軍として派遣しようとしました。

しかし、九州まで兵を率いたところで、筑紫国造磐井が、新羅と結んで反乱を起こしました。

磐井の乱は、記録上、ヤマト政権に対する最初の反乱といわれています。

これは単なる地方反乱ではなく、外交的独自路線をとる地方豪族が、中央政権に反発した重大事件として、古代史上とても重要です。

物部麁鹿火らが鎮圧

ヤマト政権は、磐井の乱に対して物部麁鹿火大伴おおともの金村かなむらの軍を派遣しました。

大伴金村は、百済に伽耶かや四県を割譲した人物です。

反乱は鎮圧され、磐井自身は処刑されます。

その後、磐井の息子がヤマト政権に従うことを条件に領地を許されたと伝えられています。

岩戸山古墳 ― 磐井の墓

福岡県八女やめ市にある岩戸山いわとやま古墳は、風土記などの文献から磐井の墓とされます。

この古墳には、石人せきじん石馬せきばといった石で作った人や馬が並んでいました。

これらは磐井の威信を象徴するものであり、彼がヤマト政権に匹敵する勢力を持っていたことを物語っています。

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