Historiographer, KEIMS, CC BY-SA 3.0, via Wikimedia Commons
コロニー(562)が消滅、
日本が朝鮮半島に持っていた拠点・
伽耶とは
「
1世紀から6世紀にかけて存続し、鉄の産地として栄えた地域でした。
伽耶は統一された一つの王国ではなく、いくつかの小国が緩やかに連合した形態をとっていました。
日本との関係
伽耶が日本史で重要なのは、古代日本との深いつながりがあったからです。
特に関係が深かった地域を
日本は任那と通じて、外交を行なってきました。
伽耶四県の割譲事件
伽耶の滅亡を理解する上で欠かせないのが、その前段階で起こった「伽耶四県の割譲」事件です。
これは512年に発生した重大な外交失策でした。
当時、朝鮮半島では
この複雑な情勢の中で、日本の有力者である

大伴金村の立場と判断

大伴金村は当時の日本で最も権力を持つ大臣の一人でした。
金村は百済との友好関係を重視し、百済を支援することで朝鮮半島での日本の影響力を維持しようと考えていました。
しかし、この判断は結果的に大きな問題を引き起こします。
伽耶四県を失ったことで、日本の朝鮮半島での足場が弱くなり、さらに国内でも大伴金村に対する批判が高まることになったのです。
物部尾輿の批判

この割譲に強く反対したのが
物部氏は軍事氏族として、朝鮮半島での軍事的影響力の維持を重視していました。
物部尾輿は、大伴金村の判断を「軽率な失策」として厳しく批判し、さらに伽耶四県の割譲時に大伴金村が百済から賄賂を受け取ったのではないかと疑いをかけました。
この追及が後の大伴金村失脚の決定的な要因となります。この対立は、古代日本の外交政策を巡る氏族間の権力闘争の一面も表しています。
新羅の台頭
6世紀に入ると、朝鮮半島の情勢は大きく変化します。
新羅が国力を急速に拡大し、領土拡張の野心を明確にし始めました。
新羅の拡張政策の中で、伽耶諸国は最も脆弱な標的となりました。
統一性に欠ける小国家群である伽耶は、組織的な抵抗が困難だったのです。
伽耶の滅亡
562年、新羅による伽耶の完全征服が完了します。
伽耶が新羅に降伏し、歴史の舞台から姿を消しました。
朝鮮半島の拠点を失う日本
伽耶の滅亡によって、朝鮮半島での拠点を完全に失った日本は、以後の対外政策を大きく見直すことを余儀なくされます。
また、この事件は大伴金村の完全な失脚を決定づけました。
伽耶四県の割譲から始まった一連の失策の責任を問われ、大伴金村は政治の表舞台から退くことになったのです。