57年は、日本史に出てくる最初の年号です。
倭の奴国の王が、後漢の光武帝に貢物を贈って金印を授けられました。
目次
なぜ金印が重要なのか?
金印が、日本史において極めて重要な理由は、日本と中国の正式な外交関係の始まりを示す最古の証拠であるという点です。
金印によって、弥生時代の日本(倭)が、中国(後漢)の皇帝から正式に認められた国として扱われていたことがわかります。
志賀島での発見物語
志賀島
金印は、江戸時代の1784年に筑前国(現在の福岡県)の志賀島で発見されました。
発見者は地元の農民である甚兵衛という人物です。
甚兵衛が田んぼの水路を修理していた際、偶然石の下から光る物を見つけました。それがこの歴史的な金印だったのです。
その後、藩の学者たちによって調査され、中国の古典に記載された「漢委奴国王」の金印であることが判明しました。
金印は、現在は福岡市博物館に所蔵されています。
漢委奴国王の文字が示すもの
金印に刻まれた「漢委奴国王」という5文字には、次のような意味が込められています。
「漢」は当時の中国王朝である後漢を指します。「委」は「倭」の古い表記で、日本を指します。「奴国王」は奴国の王という意味になります。
つまり、「漢委奴国王」とは「漢(後漢)が倭の奴国王に与えた印」という意味になります。
これは中国皇帝が日本の一地域の王を正式に認めたことを示す重要な証拠なのです。
後漢の光武帝とは何者か
光武帝
金印を授けた光武帝(劉秀)は、後漢王朝の初代皇帝です。
前漢が滅亡した後の混乱期に天下を統一し、25年に後漢を建国しました。
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内政では豪族の力を抑制し、外交では周辺諸国との関係安定化に努めました。
奴国とは?
奴国とは、弥生時代に現在の福岡県付近に存在したと考えられている小国です。
当時の日本列島(倭)には100を超えるさまざまな「クニ」が存在しており、これらの国々は中国との交流を通じて、自らの地位を高めようとしていました。
特に重要なのは、奴国が海上交通の要衝に位置していたことです。
朝鮮半島や中国大陸との交易において、博多湾は天然の良港として機能していました。
この地理的優位性が、奴国が中国との外交関係を築く基盤となったのです。
『後漢書』東夷伝の記述
後漢書という中国の歴史書によると、西暦57年、倭の中の奴国の王が使者を中国に派遣し、光武帝から金印を授かったことが記されています。
日本に関係する内容は、後漢書の東夷伝に書かれています。
日本と中国の交流の始まり
奴国王が光武帝から金印を授かったこの出来事は、日本と中国との外交関係のはじまりを示す非常に重要な出来事です。
奴国王は自らを「倭の代表」として中国に使者を送り、国の正当性や地位をアピールしたのです。
このような外交は、のちの帥升の生口の献上(107年)や卑弥呼の使節派遣(239年)、そして、倭王武の使節派遣(478年)へとつながっていき、日本と中国との関係性を築く土台となりました。
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