587年 丁未の乱

物部守屋
物部守屋
語呂合わせ

Go、矢、流(587)れる、丁未ていびの乱

崇仏派すうぶつは蘇我馬子そがのうまこは、排仏派はいぶつは物部守屋もののべのもりや丁未ていびの乱で滅ぼしました。

この乱により、物部氏が滅ぼされ、蘇我氏の権力が確立される契機になりました。

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仏教をめぐる対立

538年(552年とも)に仏教が、百済くだらから日本へ伝来すると、有力豪族の蘇我氏物部氏が真っ向から対立しました。

崇仏派の蘇我氏

崇仏派すうぶつは(仏教推進派)の蘇我氏は、仏教を積極的に受容し、大陸文化を取り入れ、天皇を支える強い中央集権体制を志向しました。

排仏派の物部氏

排仏派はいぶつは(仏教反対派)の物部氏は、伝統的な神道を重視し、仏教を「外国の神」として排除しようとしました。

用明天皇の死

585年に即位した用明ようめい天皇は、崇仏派の蘇我氏の支持を受けていました。

しかし、わずか2年後の587年に病気で崩御してしまいます。

この時、用明天皇は病気平癒のために仏教に頼ろうとしましたが、物部守屋もののべのもりやが強く反対したため、宮中の対立はさらに深刻化しました。

用明天皇は、聖徳太子の父親です。

皇位継承問題

用明天皇の死後、皇位継承を巡って蘇我馬子物部守屋の対立が決定的となります。

蘇我馬子泊瀬部はつせべの皇子みこ(のちの崇峻すしゅん天皇)を、物部守屋穴穂部あなほべの皇子みこを推戴しました。

丁未の乱 ― 蘇我馬子と物部守屋が激突

587年、ついに蘇我馬子そがのうまこ物部守屋もののべのもりやの間で武力衝突が始まりました。

この年の干支が「丁未ていび」であることから、「丁未ていびの乱」と呼ばれています。

蘇我馬子厩戸王うまやとおう聖徳太子)と結び、物部守屋の拠点へ進軍しました。

激戦の最中、物部守屋は弓矢で討ち取られ、物部氏は滅亡しました。

蘇我氏の台頭

蘇我馬子
蘇我馬子

蘇我馬子そがのうまこは、物部氏を滅ぼしたことで、朝廷における最大の権力者となりました。

馬子は泊瀬部はつせべの皇子みこ崇峻すしゅん天皇として即位させましたが、天皇が蘇我氏に批判的な態度を示すと、592年に暗殺してしまいます。

仏教の受容が決定的に

物部氏の滅亡によって、日本における仏教受容が決定的になりました。

以後、国家として仏教を保護し、蘇我氏や聖徳太子によって仏教の普及が進められました。

飛鳥寺(法興寺)の建立

法興寺の伽藍の模型
飛鳥寺(法興寺)の模型

蘇我馬子は、仏教寺院の建立を積極的に進め、588年には飛鳥寺あすかでら法興寺ほうこうじ)の建立を開始しました。

これは日本初の仏教寺院とされています。

飛鳥寺は、その後、平城京に移り元興寺がんごうじと名称が変わることになります。

四天王寺の建立

四天王寺
四天王寺

厩戸王うまやとおう聖徳太子)は、物部守屋と戦うにあたり、四天王の像を作り、「もしこの戦いに勝てば四天王を安置する寺を建てる」ことを誓ったといいます。

丁未の乱に勝利後、約束通り、四天王を祀る四天王寺してんのうじ(大阪府)を建立しました。

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