589年 隋の中国統一

隋の楊堅
隋の楊堅
語呂合わせ

公約(589)守って、隋の中国統一

ずい楊堅ようけん文帝)は、589年に南朝のちんを倒して、南北分裂していた中国を統一しました。

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楊堅(文帝)の時代

隋の建国(581年)

北周の外戚で軍閥だった楊堅は、581年に北周から禅譲を受けて皇帝(文帝)に即位し、を建国しました。

都は大興城だいこうじょうとしました。

大興城は、長安ちょうあんと同じ場所です。

中国の統一(589年)

楊堅は、隋を建国すると、南朝の陳を攻め滅ぼし、中国を再統一しました。

南北統一は、西晋の滅亡(316年)による南北分裂から約270年ぶりの出来事でした。

州県制

楊堅は、秦以降の地方分割が細かくなりすぎた状況を整理し、より効率的な行政を目指しました。

を郡に代わって最上位の地方単位とし、その下にを置く州県制を導入しました。

秦の郡県制との違い

秦の郡県制が、郡 → 県 の二層構造であったのに対して、隋の州県制は、州 → 県 の二層構造でした。

隋以降、郡は基本的に廃止され、州が中心となり、のちの唐王朝にも受け継がれました。

均田制

楊堅は、北魏の孝文帝の時代に始まった均田制きんでんせいを引き継ぎつつ、給田の仕組みを変えました。

楊堅の代で耕牛こうぎゅうへの給田を停止し、煬帝の代で奴婢ぬひへの給田をやめ、土地を支給されるのは成人男性(丁男ていだん)のみにしました。

租庸調制

楊堅は、均田制に基づく、租調庸制を実施しました。

租庸調制そようちょうせいでは、穀物を納める、労役を行う、布を納める調が課せられました。

科挙

楊堅は、魏の時代から続いていた九品中正を廃止し、儒学の学科試験による官吏登用制度である科挙かきょを導入しました。

官吏登用制度は、前漢武帝の時代には郷挙里選文帝の時代には九品中正が行われてました。

大運河の建設の開始

楊堅は、華北と江南を結びつける大運河だいうんがの建設を開始しました。

当時、華北は政治の中心地、江南は経済の中心地でした。

工事は、2代目の煬帝の時代に、ようやく完成しました。

煬帝の時代

高句麗遠征

煬帝は、高句麗遠征を3回にわたって行いましたが、全て失敗に終わりました。

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