国民(593)歓迎、聖徳太子の摂政
聖徳太子は、
聖徳太子、本名は厩戸王
聖徳太子は、飛鳥時代に政治の中枢を担った有力者です。
本名を厩戸王といい、後に尊称として「聖徳太子」と呼ばれるようになります。
推古天皇の即位と太子の摂政就任

593年、女性初の天皇である推古天皇が即位し、甥の聖徳太子が摂政に就任しました。
摂政とは
摂政とは、天皇が女性や若年などで政治の実務を行えないときに代わって政務を担う役職です。
聖徳太子は、日本で初めて本格的に摂政として国政を動かした人物とされています。
蘇我馬子との協力体制

聖徳太子の政治は、有力豪族である蘇我馬子との二人三脚で行われました。
馬子は仏教を保護し、物部氏を滅ぼして政権の実権を握っていました。

太子は馬子と協力しながら、国家の整備に取り組んでいきます。
この時期の政治改革は、日本を中央集権国家へと導くための基礎づくりともいえるものでした。
冠位十二階の制(603年) ― 世襲制を打破
聖徳太子は、世襲制を打破し、才能や功績に応じて個人を評価する
冠の色で役人を区別するようにしました。
憲法十七条(604年) ― 国家官僚としての心得
聖徳太子は、
「和をもって貴しとなす」、「仏教を敬う」、「天皇に忠誠を尽くす」など、当時の理想的な官僚像が描かれています。
遣隋使の派遣(607年) ― 隋の皇帝に臣従せず

聖徳太子は、
太子が送った国書には「日出づる処の天子、書を日没する処の天子に致す」と書かれており、隋の皇帝に対して対等な立場を主張した内容として有名です。
この外交政策は、日本が独立した国家であるという意識を内外に示すものでした。

失われた歴史書『天皇記』『国記』
聖徳太子は歴史や記録の重要性を理解しており、『
これらの書物は、残念ながら後に
聖徳太子の目指した国づくり
聖徳太子は、豪族による私的支配から脱し、国家レベルで統一された中央集権体制を構築しようとしました。
これは後の大化の改新(645年)や律令国家の成立へとつながっていきます。

この時代に興味を持つために ― 『学習まんが 聖徳太子』
『学習まんが 少年少女 人物日本の歴史 聖徳太子』は、飛鳥時代の政治や文化を分かりやすく学べる一冊です。聖徳太子が蘇我馬子とともに進めた仏教の広まりや、冠位十二階や十七条憲法の制定による国家づくりの努力が生き生きと描かれています。遣隋使を派遣して中国文化を取り入れた背景も詳しく説明され、飛鳥時代の歴史や太子の業績を深く理解できます。学びながら歴史に親しめる内容です。