607年 遣隋使の派遣

隋の煬帝
隋の煬帝
語呂合わせ

むれな(607)し渡る、遣隋使けんずいし小野妹子おののいもこの派遣)

覚え方

607年の遣隋使の派遣は、107年の帥升すいしょう生口せいこうの献上の「500年後」である。

聖徳太子しょうとくたいしは、607年に小野妹子おののいもこ遣隋使けんずいしとして派遣し、ずい煬帝ようだいに国書を渡しました。

この記事では、遣隋使の小野妹子の派遣について整理し、高校日本史で問われやすいポイントをわかりやすく解説します。

目次

遣隋使とは何か?

遣隋使とは、日本が中国の王朝へ派遣した外交使節団のことです。

607年の遣隋使では、聖徳太子の命を受けた小野妹子が派遣されました。

なぜこの時期だったのか?

この頃の日本は、推古すいこ天皇の治世下で聖徳太子が摂政として活躍していた時期でした。

一方、中国では581年にが建国され、589年に南北朝を統一して強大な帝国となっていました。

日本にとって、この新しい統一王朝との関係構築は急務だったのです。

小野妹子の派遣

小野妹子
小野妹子

小野妹子は、607年の遣隋使の大使として有名です。

「妹子」という名前から女性と勘違いされがちですが、れっきとした男性です。

日出づる処の天子 ― 日本は対等な関係を主張

小野妹子が持参した国書には、「日出ひいづるところの天子、しょ日没ひぼっする処の天子にいたす」と記されていました。

この表現は、日本を「日の出る国」、隋を「日の沈む国」として対等な外交関係を主張したもので、独立国・日本の立場をアピールしたものでした。

煬帝は激怒

対等な関係を主張した日本に対して、隋の皇帝である煬帝は激怒したとされています。

隋は、周辺諸国を「中華に従う辺境国」として見ており、朝貢ちょうこうを前提とする上下関係が外交の常識だったからです。

しかし、高句麗こうくりとの戦争を控えていたため、不快感を抱きつつも友好的に対応しました。

裴世清の来日 ― 隋からの答礼使節

遣隋使の翌年608年には、隋からの答礼使とうれいしとして裴世清はいせいせいが来日しました。

裴世清の来日は、日本が東アジア国際社会において独立国としての地位を確立した記念すべき出来事でした。

これにより日本は、中華秩序に完全に従属することなく、独自の外交路線を歩む基盤を築いたのです。

小野妹子とともに渡った人物

小野妹子とともに隋に渡り、のちの国政改革に影響を与えた人物がいます。

留学生の高向玄理たかむこのげんり、留学僧のみん南淵請安みなみぶちのしょうあんです。

高向玄理は、のちの大化たいか改新かいしん国博士くにのはかせ(政府の顧問)を務めることになります。

関連年表

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年号出来事
587年丁未の乱
589年隋の中国統一
592年崇峻天皇の暗殺
593年聖徳太子が推古天皇の摂政となる
603年冠位十二階が定められる
604年憲法十七条が定められる
607年遣隋使の小野妹子を派遣
608年隋の答礼史の裴世清が来日
618年唐の建国
620年天皇記・国記の完成
630年第1回遣唐使
643年蘇我入鹿が山背大兄王を滅ぼす
645年大化の改新(乙巳の変)
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