630年 遣唐使の派遣

遣唐使船
遣唐使船

PHGCOM, anonymous Japanese painter 8-9th century, CC BY-SA 3.0, via Wikimedia Commons

語呂合わせ

無惨むざんを(630)繰り返す、遣唐使けんとうし

舒明じょめい天皇は、630年に犬上御田鍬いぬかみのみたすき第1回遣唐使けんとうしとして派遣しました。

目次

遣唐使とは

復元された遣唐使船
復元された遣唐使船

遣唐使とは、日本が中国のとう王朝に派遣した外交使節団のことです。

630年の遣唐使では、舒明じょめい天皇の命を受けた犬上御田鍬いぬかみのみたすきが派遣されました。

遣唐使以前の状況

630年以前、日本は中国のずいに対して「遣隋使けんずいし」を派遣していました。

有名な聖徳太子しょうとくたいしの「日出ひいづるところの天子、しょ日没ひぼっする処の天子にいたす」の国書は、607年の遣隋使の際のものです。

しかし、618年にが滅亡し、新たにが建国されたため、日本は新しい王朝との関係構築が必要になったのです。

舒明天皇の即位

630年の遣唐使派遣を命じたのは、舒明じょめい天皇でした。

舒明天皇は第34代天皇で、推古すいこ天皇の後を継いで即位しました。

この時期の日本は、蘇我氏が実権を握る時代でしたが、舒明天皇は比較的積極的な外交政策を展開しました。

唐との関係構築は、国内の政治的安定と国際的地位の向上を図る重要な政策だったのです。

唐の建国と東アジア情勢

一方、中国では618年にが建国され、2代皇帝太宗たいそう李世民りせいみん)の時代に入っていました。

太宗は「貞観じょうがん」と呼ばれる善政を敷き、唐は東アジア最大の強国として君臨していました。

この時期の唐は、周辺諸国からの朝貢を積極的に受け入れており、日本にとっても外交関係を結ぶ絶好のタイミングでした。

犬上御田鍬の活躍

630年の第1回遣唐使の大使を務めたのが、犬上御田鍬いぬかみのみたすきです。

犬上御田鍬の経歴や詳細な人物像については史料が限られていますが、この重要な初回使節の大使に任命されたことから、当時の朝廷から高い信頼を得ていた人物であったことがうかがえます。

唐の太宗への謁見

犬上御田鍬率いる遣唐使一行は、太宗への謁見を果たしました。

この謁見により、日本と唐の正式な外交関係が成立し、以後約260年間にわたって遣唐使の派遣が続くことになったのです。

遣唐使の代表的な人物

その後の遣唐使には、道昭どうしょう(653年派遣)、山上憶良やまのうえのおくら(702年派遣)、藤原宇合ふじわらのうまかい(717年派遣)、阿倍仲麻呂あべのなかまろ(717年派遣)、吉備真備きびのまきび(717年・752年派遣)、玄昉げんぼう(717年派遣)、空海くうかい(804年派遣)、最澄さいちょう(804年派遣)、橘逸勢たちばなのはやなり(804年派遣)、円仁えんにん(838年派遣)など、日本史上の重要人物が多数含まれています。

彼らの活躍の礎となったのが、630年の第1回遣唐使だったのです。

道昭 ― 日本に法相宗を伝える

道昭どうしょうは第2回遣唐使(653年)で唐に渡り、玄奘げんじょう三蔵さんぞうから直接仏教を学びました。

帰国後は日本に法相宗ほっそうしゅうを伝え、日本仏教の発展に大きく貢献しました。

道昭は火葬された最初の日本人としても知られています。

また、道昭は、弟子に行基ぎょうきがいます。

行基は、東大寺の大仏建立に貢献した人物です。

山上憶良 ― 万葉集に歌を残す歌人

山上憶良やまのうえのおくらは、702年の遣唐使に参加した官人・歌人です。

万葉集まんようしゅうに多くの歌を残し、特に「貧窮問答歌ひんきゅうもんどうか」で知られています。

唐での経験が彼の文学活動に大きな影響を与えました。

藤原宇合 ― 式家の祖

藤原宇合
藤原宇合

藤原宇合ふじわらのうまかい藤原不比等ふじわらのふひとの三男で、717年の遣唐使に参加しました。

帰国後は参議まで昇進し、藤原四兄弟の一人として奈良時代の政治を担いました。

式家しきけの祖として知られ、式家からは藤原広嗣ふじわらのひろつぐ藤原種継ふじわらのたねつぐなどの政治家を輩出しました。

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藤原四兄弟特徴
藤原武智麻呂むちまろ長男、南家なんけの祖、長屋王の変を主導、左大臣
藤原房前ふささき次男、北家ほっけの祖、後の摂関政治につながる、右大臣
藤原宇合うまかい三男、式家しきけの祖、軍事・警察を担当、中納言
藤原麻呂まろ四男、京家きょうけの祖、兄たちほど出世しなかった、大納言

阿倍仲麻呂 ― 帰国できなかった悲劇の人物

阿倍仲麻呂
阿倍仲麻呂

遣唐使として最も有名な人物の一人が阿倍仲麻呂あべのなかまろです。

阿倍仲麻呂は、阿倍比羅夫あべのひらふの孫です。

717年の第9回遣唐使として入唐にっとうし、現地では朝衡ちょうこうと名乗りました。

入唐とは、唐に行くことです。

科挙にも合格し、その才能を認められて唐朝に仕官しました。

唐の玄宗げんそう皇帝に仕え、李白りはく王維おういなど唐の詩人とも交流しました。

帰国を望みながらも結局唐で生涯を終えた悲劇の人物として知られています。

百人一首に選定される

有名な和歌「あまはら ふりさけ見れば 春日かすがなる 三笠みかさの山に 出でし月かも」は、故郷を思う心境を歌ったものとして百人一首にも収められています。

吉備真備 ― 橘諸兄政権で活躍

吉備真備
吉備真備

吉備真備きびのまきびは717年の遣唐使として入唐し、約17年間唐で兵学や史書などを学んだ後、734年に帰国しました。

帰国後は聖武しょうむ天皇の側近として活躍し、橘諸兄たちばなのもろえ政権下で重要な役割を果たしました。

玄昉 ― 仏教政策を推進

玄昉げんぼう法相宗ほっそうしゅうの僧侶で、唐で仏教を学んだ後、帰国して聖武天皇の信任を得ました。

717年に入唐し、735年に帰国しました。

朝廷で重用され政治にも関与しましたが、藤原広嗣ふじわらのひろつぐの乱の一因となったことでも知られています。

その後、藤原仲麻呂ふじわらのなかまろとの政治的対立により、最終的には九州の大宰府で没することになりました。

空海 ― 真言宗を確立

空海
空海

平安時代初期の804年(第18回)遣唐使には、空海が派遣されています。

空海は密教みっきょうを学び、806年に日本に帰国し、密教を基盤にした真言宗しんごんしゅうを確立させました。

最澄 ― 天台宗を伝える

最澄
最澄

最澄は、空海らと共に804年の第18回遣唐使で唐に渡っています。

天台山で天台宗てんだいしゅうを学び、805年に帰国し、日本に天台宗を伝えました。

橘逸勢 ― 三筆の一人

橘逸勢たちばなのはやなりは804年の遣唐使で空海・最澄と同行し、琴や書道を学んだ人物です。

帰国後は嵯峨さが天皇空海と並んで「三筆さんぴつ」の一人に数えられるほどの書道の名手となりました。

しかし、承和の変(842年)に連座して伊豆に流される途中で病死するという悲劇的な最期を遂げました。

円仁 ― 最後の遣唐使で派遣

円仁えんにんは838年の第19回遣唐使(最後の遣唐使)に参加した天台宗の僧侶です。

仏法を求めて唐の仏教の聖地を巡礼し、その経験を『入唐求法巡礼行記にっとうぐほうじゅんれいこうき』に著しました。

遣唐使の廃止

遣唐使は838年の第19回を最後に派遣が停止されます。

894年に菅原道真ふじわらのみちざねが、遣唐使の廃止を建議したことで、正式に終了しました。

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