645年 大化の改新

大化の改新
大化の改新(乙巳の変)
語呂合わせ

無事故(645)で世づくり、大化たいか改新かいしん

大化たいか改新かいしんは、蘇我そが氏の専権を排除した中大兄なかのおおえの皇子みこ中臣鎌足なかとみのかまたりらが主導した政治改革です。

とうの制度を参考にした改革を行い、天皇を中心とした統治体制の基盤を築きました。

目次

大化の改新とは何か?

大化の改新とは、645年から650年頃にかけて行われた一連の政治改革のことです。

この改革の中心となったのが中大兄なかのおおえの皇子みこ(後の天智てんじ天皇)と中臣鎌足なかとみのかまたり(後の藤原鎌足ふじわらのかまたり)でした。

なぜ改革が必要だったのか?

改革の最大の目的は、それまで日本を支配していた豪族政治から脱却し、天皇を中心とした中央集権的な国家体制を築くことでした。

特に、当時最大の権力を握っていた蘇我そがを排除することが急務とされていました。

山背大兄王の排除

蘇我馬子そがのうまこの時代から始まった蘇我氏の専横は、その子である蘇我蝦夷そがのえみし、孫の蘇我入鹿そがのいるかの代に頂点に達しました。

蘇我入鹿は、有力な皇位継承候補であった山背大兄王やましろのおおえのおう聖徳太子の子)を643年に襲撃し、自害に追い込みました。

山背大兄王の排除により、蘇我氏は皇室をも脅かす存在となっていたのです。

蘇我氏の専横、極まる

蘇我入鹿
蘇我入鹿

舒明じょめい天皇の時代(在位: 629-641年)には、まだ蘇我氏との関係は比較的良好でした。

しかし、舒明天皇が崩御すると、その后である皇極こうぎょく天皇が即位しました(在位: 642-645年)。

皇極天皇の治世下で、蘇我氏の専横はさらに激しくなりました。

特に蘇我入鹿は、まるで天皇のような振る舞いを見せていました。

反蘇我氏勢力の結集

藤原鎌足(中臣鎌足)
中臣鎌足

蘇我氏の専横に危機感を抱いた中大兄なかのおおえの皇子みこ(後の天智てんじ天皇)と中臣鎌足なかとみのかまたり(後の藤原鎌足ふじわらのかまたり)は、蘇我氏打倒の計画を密かに進めていました。

中臣鎌足は神祇じんぎを司る中臣氏の出身で、優れた政治的才能を持つ人物でした。

また、遣隋使けんずいしとして大陸で学んだ高向玄理たかむこのげんりみん南淵請安みなみぶちのしょうあんも改革派に加わりました。

乙巳の変(645年) ― 中大兄皇子らによるクーデター

中大兄なかのおおえの皇子みこ中臣鎌足なかとみのかまたりは、天皇を中心とした中央集権的な政権を樹立するために乙巳いっしの変と呼ばれるクーデターを起こしました。

蘇我入鹿の暗殺

蘇我入鹿
蘇我入鹿の暗殺

飛鳥あすか板蓋宮いたぶきのみの大極殿で、三韓(百済・新羅・高句麗)からの使者を迎える儀式の最中に中大兄皇子自らが蘇我入鹿そがのいるかに斬りかかり、これを殺害しました。

蘇我蝦夷の自害

入鹿の父である蘇我蝦夷そがのえみしは、息子の死を知った後、甘樫丘あまかしのおかの邸宅に火を放ち自害しました。

この時、蘇我氏が保管していた『天皇記てんのうき』と『国記こっき』という貴重な歴史書も焼失してしまいました。

こうして、蘇我本宗家ほんそうけの蝦夷・入鹿親子の権力はここに完全に崩壊しました。

新体制の確立

乙巳いっしの変の後、皇極こうぎょく天皇は退位し、軽皇子かるのみこ孝徳こうとく天皇として即位しました。

このように天皇が生前に、その位を譲ることを譲位じょういといいます。

この時が天皇の初の譲位でした。

孝徳天皇は、皇極天皇の弟で、中大兄皇子の叔父にあたる人物です。

中大兄皇子は皇太子となり、実質的な政治の中心となりました。

また、孝徳天皇は、都を飛鳥板蓋宮あすかいたぶきのみから難波宮なにわのみや(現在の大阪市)に移しました。

新政府の主要メンバーは以下の通りです:

  •  天皇:孝徳天皇
  • 皇太子:中大兄皇子
  • 左大臣さだいじん阿倍内麻呂あべのうちのまろ
  • 右大臣うだいじん蘇我倉山田石川麻呂そがのくらやまだのいしかわのまろ(蘇我氏の分家)
  •  内臣うちつおみ:中臣鎌足
  • 国博士くにのはかせ高向玄理たかむこのげんりみん

改新の詔(646年) ― 新政権の方針

乙巳いっしの変の翌年の646年、新政権によって改新かいしんみことのりが発布され、天皇を中心とした新しい政治方針と統治体制が示されました。

改新の詔は、以下の4ヵ条からなっています。

  • 公地公民
  • 中央集権的な行政組織の整備
  • 戸籍・計帳・班田収授法
  • 税制度の確立

第1条:公地公民制の確立 

それまでの私地私民制しちしみんせい(豪族が土地と人民を私有する制度)を廃止し、公地公民制こうちこうみんせい(すべての土地と人民は天皇のもの)を確立することを定めました。

第2条:中央集権的な行政組織の整備

都(首都)を定め、地方行政区画を設けることを定めました。

第3条:戸籍・計帳・班田収授法

人民を把握するために戸籍こせきを作成し、税収管理のための帳簿(計帳けいちょう)を整備することを定めました。

そして、国民が一定の年齢に達したら田を与え(班田はんでん)、亡くなったら国に戻す(収受しゅうじゅ)ことを定めました。

ただし、班田収授法はんでんしゅうじゅほうが本格的に施行されるのは、701年の大宝律令たいほうりつりょうからです。

なお、班田収授法は、唐の均田制を参考にしたものとされています。

第4条:税制度の確立

大王や豪族がバラバラに取っていた税制度を改め、一定の基準で税を徴収することを定めました。

改革、その後

この改革により、日本は豪族が支配する分権的な国家から、天皇を頂点とする中央集権的な律令国家への転換を図りました。

しかし、大化の改新による改革は必ずしもすべてが成功したわけではありませんでした。

特に地方の豪族たちは従来の権益を手放すことに抵抗し、公地公民制の完全な実施には時間がかかりました。

中大兄皇子による粛清

大化の改新後、中大兄皇子により何人もの人が粛清されました。

古人大兄皇子

古人大兄ふるひとのおおえの皇子みこは、蘇我入鹿の従兄弟にあたる人物です。

乙巳の変で蘇我本宗家の後ろ盾を失った後、出家して吉野で暮らしていましたが、中大兄皇子により攻め滅ぼされました。

蘇我倉山田石川麻呂

蘇我倉山田石川麻呂そがのくらやまだのいしかわのまろは、大化の改新の功臣の一人で右大臣に任命されていました。

讒言により自害に追い込まれました。

有間皇子

有間ありまの皇子みこは、孝徳天皇の子です。

皇位継承の筆頭者であったため、中大兄皇子に警戒されていました。

謀反の計画が露見し、処刑されました。

孝徳天皇と中大兄皇子の対立

また、孝徳こうとく天皇中大兄なかのおおえの皇子みこの間には政治方針をめぐって対立が生じ、中大兄皇子は難波宮から飛鳥に戻ってしまいます。

孝徳天皇は、失意のうちに病没します。

皇極天皇が重祚して斉明天皇に

皇極天皇(斉明天皇)
斉明天皇

孝徳天皇の病没後、皇極こうぎょく天皇が再び斉明さいめい天皇として即位します。

同じ天皇が再び即位することを重祚ちょうそといいます。

これが日本初の重祚です。

中臣鎌足から藤原鎌足へ

中臣鎌足は大化の改新の立役者として、その後も中大兄皇子天智天皇)の信頼を得続けました。

669年、鎌足が病気で亡くなる直前に、天智天皇から藤原ふじわらの姓を賜りました。

これが後の藤原氏の始まりです。

藤原氏はその後、平安時代を通じて朝廷で最大の権力を握る氏族となり、摂関政治の時代を築くことになります。

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