663年 白村江の戦い

天智天皇
天智天皇
語呂合わせ

無論、(663)えない、白村江はくすきのえ(はくそんこう)の戦い

日本百済くだらの連合軍は、とう新羅しらぎの連合軍と白村江で戦いましたが、敗北しました。

この戦いを白村江はくすきのえ(はくそんこう)の戦いと言います。

目次

朝鮮半島の三国時代

7世紀の朝鮮半島は、高句麗こうくり百済くだら新羅しらぎの三国が覇権を争う時代でした。

この中で新羅は、中国のとうと手を組んで他の二国を圧迫していました。

狙われる百済

百済と新羅
百済

Historiographer at the English Wikipedia, CC BY-SA 3.0, via Wikimedia Commons

当時、とうの最大の敵は強国・高句麗こうくりでした。

唐は高句麗征討において、まず百済くだらを滅ぼして高句麗の背後を抑える戦略をとりました。

つまり、百済は高句麗攻略のための「踏み台」として狙われたのです。

百済の滅亡と復興計画

660年、百済くだらは、新羅しらぎの連合軍によって滅ぼされました。

滅亡後、百済の復興を目指す鬼室福信きしつふくしんらが日本に助けを求めます。

そして、日本に人質として送られていた百済の王子の豊璋ほうしょう余豊璋よほうしょう)を日本から迎えて復興運動を展開しました。

豊璋は、百済王として即位し、復興運動の象徴的存在となります。

斉明天皇と朝倉宮

皇極天皇(斉明天皇)
斉明天皇

当時の日本は斉明さいめい天皇が統治していました。

斉明天皇は、蝦夷えみし粛慎みしはせの征討で阿倍比羅夫あべのひらふを派遣した女性天皇です。

斉明天皇は百済くだら救援を決断し、九州の朝倉宮あさくらのみやに行幸しました。

朝倉宮は現在の福岡県朝倉市にあったとされる離宮で、朝鮮半島出兵の前線基地として機能しました。

しかし、斉明天皇は朝倉宮で崩御してしまいます。

日本が百済を援助した理由

百済くだらは古くから日本と友好関係にあり、文化交流も盛んでした。

また、朝鮮半島での影響力維持という政治的な意図もありました。

斉明天皇から中大兄皇子へ

その後、皇太子の中大兄皇子なかのおおえのおうじ(後の天智てんじ天皇)が称制しょうせいとして政治を行いました。

称制とは、正式に即位せずに天皇の政務を代行することです。

阿倍比羅夫の派遣

日本の百済くだら救援作戦において重要な役割を果たしたのが阿倍比羅夫あべのひらふです。

阿倍比羅夫は当時の有力な武将で、蝦夷えみし粛慎みしはせの征討でも活躍していました。

彼は百済救援軍の指揮官として朝鮮半島に派遣されました。

白村江の戦いで敗北 ― 百済の復興が絶たれる

白村江の戦いは663年、朝鮮半島西岸の白村江(現在の錦江河口付近)で行われました。

中大兄皇子率いる日本軍は、百済くだら復興軍と連合して、(この時の皇帝は高宗こうそう)と新羅しらぎの連合軍と戦いました。

しかし、海戦において日本・百済連合軍は唐の水軍に大敗を喫しました。

この敗北で百済の復興は絶たれ、日本は朝鮮半島での影響力を失うことになりました。

豊璋ほうしょうは高句麗に逃れたといいます。

日本は防衛力を強化

この戦いの後、日本は唐・新羅の侵攻に備える必要性を痛感し、九州北部で防衛体制を強化しました。

太宰府

防衛体制の中核が太宰府だざいふです。

太宰府は外交や軍事の要衝であり、唐や新羅しらぎに対する防衛の司令部となりました。

水城

太宰府の前面には、水城みずきが築かれました。

水城は、堀をともなう大規模な土塁です。

古代山城

さらに、大野城おおのじょう基肄城きいじょうのような古代山城やまじろ朝鮮式山城)が築かれました。

古代山城朝鮮式山城)は、百済の築城技術を参考にして建設された山城です。

敵の来襲を知らせるため、とぶひによる通信網も整備されました。

とぶひは、煙や火を使った通信手段で、敵の侵攻を素早く都に伝える役割を果たしました。

防人

防人さきもりの制度も本格化しました。

防人は東国の農民を中心とした兵士で、九州の国境警備に当たりました。

万葉集には、故郷を離れて防人として赴任する人々の歌が多数収録されています。

新羅の半島統一へ

白村江の戦い(663年)によって、百済くだらの復興が完全に断たれ、668年には高句麗こうくりも滅亡しました。

新羅しらぎはその後、唐とも対立しながら、最終的に新羅の朝鮮半島統一(676年)を達成します。

日本の外交政策転換

白村江の敗北は、日本は朝鮮半島での影響力を失い、大陸との直接的な軍事衝突を避ける外交政策に転換しました。

これは、その後の日本の対外政策に大きな影響を与えることになります。

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