無論、
日本と
この戦いを
朝鮮半島の三国時代
7世紀の朝鮮半島は、
この中で新羅は、中国の
狙われる百済

Historiographer at the English Wikipedia, CC BY-SA 3.0, via Wikimedia Commons
当時、
唐は高句麗征討において、まず
つまり、百済は高句麗攻略のための「踏み台」として狙われたのです。
百済の滅亡と復興計画
660年、
滅亡後、百済の復興を目指す
そして、日本に人質として送られていた百済の王子の
豊璋は、百済王として即位し、復興運動の象徴的存在となります。
斉明天皇と朝倉宮

当時の日本は
斉明天皇は
朝倉宮は現在の福岡県朝倉市にあったとされる離宮で、朝鮮半島出兵の前線基地として機能しました。
しかし、斉明天皇は朝倉宮で崩御してしまいます。
熟田津に船乗りせむと月待てば…

熟 田津 に 船乗りせむ と 月待てば潮 もかなひ ぬ 今は漕 ぎ出 でな(熟田津で、船を出そうと、月を待っていると、潮の流れも良くなってきた。さあ、漕ぎ出そう。)
百済に向けて、停めていた船を出す機会をうかがっている様子を表しています。
この歌は万葉集に収録されています。
日本が百済を援助した理由
また、朝鮮半島での影響力維持という政治的な意図もありました。
斉明天皇から中大兄皇子へ
その後、皇太子の
称制とは、正式に即位せずに天皇の政務を代行することです。
阿倍比羅夫の派遣
日本の
阿倍比羅夫は当時の有力な武将で、
彼は百済救援軍の指揮官として朝鮮半島に派遣されました。

白村江の戦い
白村江の戦いは663年、朝鮮半島西岸の白村江(現在の錦江河口付近)で行われました。
中大兄皇子率いる日本軍は、
大敗 ― 百済の復興が絶たれる
海戦において、日本・百済連合軍は、唐の水軍と激突します。
日本の軍勢が豪族の寄せ集めで指揮系統がバラバラであったのに対して、唐の軍勢は法に裏打ちされた統一的な軍隊であったため大敗を喫します。
この敗北で百済の復興は絶たれ、日本は朝鮮半島での影響力を失うことになりました。
日本は防衛力を強化
この戦いの後、日本は唐・新羅の侵攻に備えるため、九州北部から大和にかけて防衛体制を強化しました。
太宰府
防衛体制の中核が
太宰府は外交や軍事の要衝であり、唐や
水城
太宰府の前面には、
水城は、堀をともなう大規模な土塁です。
古代山城
さらに、
朝鮮式山城は、百済の亡命技術者によって朝鮮半島の様式でつくられたことに由来する名前です。
山の稜線に沿って、土塁や石塁をめぐらされました。
烽
敵の来襲を知らせるため、
防人
防人は東国の農民を中心とした兵士で、九州の国境警備に当たりました。
万葉集には、故郷を離れて防人として赴任する人々の歌が多数収録されています。
近江大津宮へ遷都
中大兄皇子は、唐に攻められやすい飛鳥から、琵琶湖の周辺の
新羅の半島統一へ
白村江の戦い(663年)によって、
日本の外交政策転換
白村江の敗北は、日本は朝鮮半島での影響力を失い、大陸との直接的な軍事衝突を避ける外交政策に転換しました。
これは、その後の日本の対外政策に大きな影響を与えることになります。