729年 長屋王の変

長屋王
長屋王
語呂合わせ

何食(729)わぬ顔で、長屋王ながやおうの変

長屋王ながやおうの変は、天皇家の一族である長屋王が、藤原四兄弟によって失脚し、自害に追い込まれた政変のことです。

この記事では、長屋王の変について整理し、高校日本史で問われやすいポイントをわかりやすく解説します。

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目次

聖武天皇の治世

聖武天皇
聖武天皇

聖武しょうむ天皇は、724年に即位し、奈良時代中期の政治を担いました。

文武天皇の皇子で、母は藤原不比等の娘・宮子みやこです。

聖武天皇は、藤原氏を母にもつ初めての天皇です。

聖武天皇の治世初期、政治権力を握っていたのは皇族の長屋王でした。

一方、聖武天皇の外戚である藤原氏は、自らの影響力拡大を目指していたのです。

長屋王 ― 天武天皇の孫

長屋王ながやおうは、天武てんむ天皇の息子である高市皇子たけちのおうじの子、つまり天武天皇の孫にあたります。

左大臣さだいじんという最高職に就ており、皇族出身の有力な貴族でした。

また、天武天皇系の皇族として、長屋王は皇位継承においても有力な候補と見なされていました。

長屋王の政策

長屋王ながやおうが行った政策には、百万ひゃくまん町歩ちょうぶ開墾計画かいこんけいかく三世一身法さんぜいっしんほうがあります。

藤原四兄弟 ― 藤原鎌足の孫たち

長屋王ながやおうと対立したのが、藤原ふじわらの不比等ふひとの息子たちである藤原四兄弟藤原四子ふじわらよんし)です。

彼らは祖父の藤原鎌足ふじわらのかまたりから続く藤原氏の権力基盤を固めようとしていました。

南家 ― 藤原武智麻呂

藤原武智麻呂
藤原武智麻呂

長男の藤原ふじわらの武智麻呂むちまろは、南家なんけの祖です。

武智麻呂は長屋王の変において中心的な役割を果たします。

南家の著名な人物としては、藤原仲麻呂なかまろ恵美押勝えみのおしかつ)がいます。

北家 ― 藤原房前

藤原房前
藤原房前

次男の藤原ふじわらの房前ふささきは、北家ほっけの祖です。

北家は後に摂関政治を担う藤原氏の本流となる重要な家系です。

北家の著名な人物としては、藤原冬嗣ふゆつぐ藤原良房よしふさ藤原基経もとつね藤原道長みちながなどがいます。

式家 ― 藤原宇合

藤原宇合
藤原宇合

三男の藤原ふじわらの宇合うまかいは、式家しきけの祖です。

717年の遣唐使に参加し、帰国後は軍事や難波宮の造営を担当します。

式家の著名な人物としては、藤原広嗣ひろつぐ藤原百川ももかわ藤原種継たねつぐ藤原薬子くすこなどがいます。

京家 ― 藤原麻呂

四男の藤原ふじわらの麻呂まろ京家きょうけの祖です。

京家は他の三家に比べて勢力は劣りましたが、藤原氏の一翼を担いました。

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藤原四兄弟特徴
藤原武智麻呂むちまろ長男、南家なんけの祖、長屋王の変を主導
藤原房前ふささき次男、北家ほっけの祖、後の摂関政治につながる
藤原宇合うまかい三男、式家しきけの祖、遣唐使に参加
藤原麻呂まろ四男、京家きょうけの祖、政治的影響は控えめ

光明子の立后問題

光明子
光明子(中央)

対立の最大の焦点となったのが、光明子こうみょうし立后りっこう問題でした。

聖武天皇の妃の光明子は、藤原不比等の娘で、藤原四兄弟の妹にあたります。

これまで皇后こうごうは皇族出身者のみが就任するのが慣例でした。

皇后は、いざという時には天皇に代わって政治をすることもあるため、臣下出身の女性が皇后になることは前例がなく、長屋王ながやおうはこれに強く反対していました。

長屋王の変 ― 左道を学び国家を傾けんと欲す

藤原四兄弟長屋王ながやおうが対立する中で、729年、長屋王に対して「左道さどうを学び国家を傾けんと欲す」という告発がなされました。

「左道」とは呪術を指し、つまり長屋王が「呪術を使って国家を転覆させようとしている」という内容でした。

告発を受けて、朝廷は藤原ふじわらの宇合うまかいの指揮する兵で、長屋王の邸宅を軍で包囲しました。

一方的に罪人扱いされた長屋王は、弁明の機会も与えられず、自害に追い込まれました。

これを長屋王ながやおうの変といいます。

藤原四子政権の確立

長屋王の死後、藤原四兄弟は藤原四子政権を確立しました。

四兄弟がそれぞれ重要な官職に就き、協力して政治を運営する体制です。

この体制により、藤原氏は朝廷政治の中枢を完全に掌握することに成功しました。

光明子、皇后になる

長屋王という最大の反対者を排除した藤原氏は、ついに光明子こうみょうしの立后を実現させました。

光明子は、日本史上初の臣下出身の皇后となりました。

天然痘の大流行

しかし、藤原四兄弟の栄華は長続きしませんでした。

737年、天然痘の大流行が起こり、藤原四兄弟は全員がこの疫病で死亡してしまいました。

天然痘は、新羅から入ってきたと考えられています。

この出来事は当時の人々に大きな衝撃を与え、長屋王の祟りではないかと恐れられました。

藤原氏の権力は一時的に後退することになります。

その後、皇族出身のたちばなの諸兄もろえが台頭することになりました。

理解を深めるQ&A

よくある質問を通して、学びをさらに深めよう!

藤原氏を母にもつ初めての天皇は誰?

聖武しょうむ天皇です。

聖武天皇の母は、藤原不比等の娘・宮子みやこです。

長屋王の変の中心人物は誰?

藤原四兄弟の長男である藤原ふじわらの武智麻呂むちまろです。

彼は、南家なんけの祖です。

のちに摂関政治を担う藤原氏の本流となる家系は?

北家ほっけです。

藤原四兄弟の次男である藤原ふじわらの房前ふささきが祖です。

藤原四兄弟の中で遣唐使に参加したのは誰?

藤原四兄弟の三男である藤原ふじわらの宇合うまかいです。

彼は、式家しきけの祖です。

日本初の臣下出身の皇后は誰ですか?

光明子こうみょうしです。

彼女は藤原四兄弟の妹で、聖武天皇の皇后になりました。

なお、これまで皇后こうごうは皇族出身者のみが就任するのが慣例でした。

長屋王の変の後、藤原四兄弟はどうなったの?

藤原四子政権を確立しましたが、737年に天然痘で相次いで死去しました。

関連年表

奈良時代(710〜794年)の歴史は、次の通りです。

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年号出来事
710年平城京へ遷都
711年蓄銭叙位令の制定
712年古事記の撰上
713年風土記の撰上
713年開元の治
717年第9回遣唐使(阿倍仲麻呂・吉備真備・玄昉)
718年養老律令の制定
720年日本書紀の編纂
722年百万町歩の開墾計画
723年三世一身法
724年多賀城の設置
729年長屋王の変
740年藤原広嗣の乱
741年国分寺建立の詔
743年墾田永年私財法、大仏造立の詔
751年懐風藻の成立
752年大仏開眼供養
753年鑑真の来日
755年安史の乱
757年橘奈良麻呂の変
764年恵美押勝の乱
765年道鏡、太政大臣禅師になる
766年道鏡、法王になる
769年宇佐八幡宮神託事件
780年伊治呰麻呂の乱
784年長岡京へ遷都
792年健児の制
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