740年 藤原広嗣の乱

藤原広嗣
藤原広嗣
語呂合わせ

名、知れ(740)る、藤原広嗣の乱

藤原広嗣ふじわらのひろつぐの乱は、太宰府に左遷された藤原広嗣が朝廷から吉備真備きびのまきび玄昉げんぼうを排除しようとして起こした反乱です。

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橘諸兄が政権を握る

天然痘てんねんとうの流行によって、政治の主導権を握っていた藤原四兄弟が相次いで亡くなると、皇族出身の橘諸兄たちばなのもろえに主導権が変わりました。

橘諸兄は、藤原氏の勢力を抑えつつ、自らの政治基盤を固めていきました。

重用される吉備真備と玄昉

橘諸兄は、唐からの帰国者である吉備真備と僧の玄昉を重用し、政治を行いました。

しかし、これに式家しきけの藤原宇合うまかいの子である藤原広嗣が反発しました。

藤原広嗣の左遷

藤原広嗣は、朝廷の政策に異議を唱えたため、九州の太宰府に左遷させられました。

太宰府にいた広嗣は、吉備真備玄昉を排除する様に訴えましたが、聞き入られませんでした。

藤原広嗣の乱

訴えが聞き入れられなかった広嗣は、反乱を決意し、九州の兵を集めて挙兵しました。

これを藤原広嗣の乱といいます。

それに対して、朝廷は大野東人おおののあずまびとを大将とする討伐軍を派遣しました。

広嗣の軍は朝廷軍と衝突し敗北、捕えられ処刑されました。

恭仁京へ遷都

聖武しょうむ天皇は、乱の影響が平城京へいじょうきょうに及ぶことを恐れ、山背やましろ恭仁京くにきょうに遷都しました。

その後、摂津せっつ難波京なにわきょう近江おうみ紫香楽宮しがらきのみやへと都を移していき、不安定な政治状況が続きました。

しかし、結局、745年に平城京へ戻りました。

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