740年 藤原広嗣の乱

藤原広嗣
藤原広嗣
語呂合わせ

名、知れ(740)る、藤原広嗣ふじわらのひろつぐの乱

藤原広嗣ふじわらのひろつぐの乱は、太宰府に左遷された藤原広嗣が朝廷から吉備真備きびのまきび玄昉げんぼうを排除しようとして起こした反乱です。

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橘諸兄が政権を握る

橘諸兄
橘諸兄

天然痘てんねんとうの流行によって、政治の主導権を握っていた藤原四兄弟が相次いで亡くなると、皇族出身のたちばなの諸兄もろえに主導権が変わりました。

橘諸兄は、藤原氏の勢力を抑えつつ、自らの政治基盤を固めていきました。

重用される吉備真備と玄昉

たちばなの諸兄もろえは、遣唐使から帰国した吉備真備きびのまきびと僧の玄昉げんぼうを重用し、政治を行いました。

吉備真備

吉備真備

吉備真備きびのまきびは、遣唐使として717年に唐に渡り、兵学や史書などの学問を修めて帰国しました。

唐でも知識人として名高く「遣唐使の中で唐で名を上げたのは吉備真備と阿倍仲麻呂の二人のみ」と言われるほどでした。

彼は唐の制度や文化にも精通しており、聖武天皇や橘諸兄から重用されていました。

玄昉

玄昉
玄昉

玄昉げんぼうは僧侶として唐に渡り、法相宗ほっそうしゅうを学んで帰国しました。

彼もまた聖武天皇の信任を得て、政治的な発言力を持つようになっていました。

藤原広嗣の乱

吉備真備きびのまきび玄昉げんぼうの重用に対して、式家しきけの藤原宇合うまかいの子である藤原広嗣が反発しました。

藤原宇合は、藤原不比等ふひとの三男です。

藤原広嗣の左遷

しかし、朝廷の政策に異議を唱えたとして、九州の太宰府だざいふに左遷させられることになります。

太宰府にいた広嗣は、吉備真備きびのまきび玄昉を排除する様に訴えましたが、聞き入られませんでした。

広嗣、挙兵する

訴えが聞き入れられなかった広嗣は、反乱を決意し、九州の兵を集めて挙兵しました。

これを藤原広嗣の乱といいます。

大野東人により鎮圧

大野東人
大野東人

それに対して、朝廷は大野東人おおののあずまびとを大将軍とする征討軍を派遣しました。

広嗣の軍は朝廷軍と衝突し敗北、捕えられ処刑されました。

遷都を繰り返す聖武天皇

聖武天皇
聖武天皇

聖武しょうむ天皇は、乱の影響が平城京へいじょうきょうに及ぶことを恐れ、740年、山背やましろ恭仁京くにきょうに遷都しました。

その後、744年には摂津せっつ難波京なにわきょう近江おうみ紫香楽宮しがらきのみやへと都を移していき、不安定な政治状況が続きました。

しかし、結局、745年に平城京へ戻りました。

国分寺建立の詔

なお、聖武しょうむ天皇は、遷都の最中の741年、藤原広嗣の乱による政治的混乱を仏教の力で鎮めようと国分寺建立こんりゅうみことのりを発布しています。

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