名、良い(741)寺、国分寺
国分寺
広がる社会不安
当時の日本では、
天然痘の大流行(735 ~ 737年)
天然痘は、735年から737年にかけて大流行し、日本の人口の25~35%が死亡したとされます。
特に政治の中枢にいた藤原四兄弟(武智麻呂、房前、宇合、麻呂)全員が天然痘で死亡し、政治体制が大きく揺らぎました。
藤原広嗣の乱(740年)
藤原広嗣の乱は、藤原四兄弟の死後、橘諸兄政権下の吉備真備と玄昉の排除を訴えて、藤原広嗣が九州で起こした反乱です。
この乱は鎮圧されましたが、政治的不安定さを象徴する出来事でした。

このような状況の中で、仏教の力で国を安定させようと考えた聖武天皇は、仏教を国家の柱とする
鎮護国家 ― 仏教の力で国を守る
この時代は、仏教は個人を対象にするのではなく国家のため、国を護ることが求められました。
国分寺建立の詔 ― 国ごとに国分寺と国分尼寺を建立
聖武天皇は、
国分寺
国分寺は、
この経典では、四天王が国家を守護するとされています。
総国分寺

国分寺の総本山を総国分寺といい、東大寺が指定されました。
特に東大寺の大仏建立(743年開始)は、国分寺政策の集大成として位置づけられます。

国分尼寺
国分尼寺は
罪を滅し、功徳を積むことで国家の安泰を祈願するという思想が込められています。
総国分尼寺

国分尼寺の総本山を総国分尼寺といい、
後世への影響
仏教が国家統治の手段として確立され、全国に仏教文化が普及する基盤が築かれました。