753年 鑑真の来日

鑑真の像
鑑真の像
語呂合わせ

なん誤算ごさん(753)の末に、鑑真がんじんが来日

唐の僧である鑑真がんじんは、日本へ渡航し戒律かいりつを伝えました。

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鑑真来日の背景

鑑真は、日本の仏教史において極めて重要な人物です。

しかし、なぜ中国の僧が遠く離れた日本まで来る必要があったのでしょうか?

僧尼令

奈良時代の日本では、僧尼令そうにりょうによって仏教の統制が行われており、僧綱そうごうという役所が僧・尼と寺院を管轄していました。

僧と尼は、民間への布教が禁じられる一方で、人頭税じんとうぜいは免除されていました。

私度僧の発生

この人頭税の免除を目当てに、私度僧しどそう(無許可に僧や尼になる者のこと)が発生しており問題になっていました。

これは、当時の日本では、僧侶になるための正式な手続きである戒律かいりつ(仏教の規則のこと)や授戒じゅかい(出家するときの正式な手続きのこと)の制度が整っていないことが一因でした。

このため、授戒師じゅかいし(戒律を授ける資格を持つ高僧のこと)が必要とされていました。

唐の僧・鑑真

鑑真は、唐・揚州の大明寺だいめいじの住職として多くの弟子を持つ高僧で、律宗りっしゅうの第一人者でした。

律宗

律宗とは、戒律を重視する仏教の宗派です。

戒律は、僧侶が守るべき規則や修行方法を厳格に定めたものです。

日本からの招聘

742年、遣唐使として中国に派遣されていた僧侶たちが、鑑真のもとを訪れ、授戒師として鑑真に来日を要請しました。

この要請を聞いた鑑真は、弟子たちが反対する中で「仏法のためならば命を惜しまない」と決意を固めました。

5度の失敗と失明

743年から10年間、鑑真は日本渡航を5回試みましたが、すべて失敗に終わりました。

唐の役人に阻止され、嵐に遭い、海賊に襲われ、時には海南島まで流されることもありました。

また、鑑真は、長年の苦労と病気により失明してしまいます。

6度目の正直 ― ついに日本へ

753年、6度目の挑戦でついに鑑真は日本の土を踏みました。

その後、平城京へいじょうきょうに到着した鑑真は、時の聖武しょうむ上皇光明こうみょう皇太后孝謙こうけん天皇から盛大な歓迎を受けました。

授戒制度の整備

鑑真の来日によって授戒制度が整備されることになります。

授戒を行うための戒壇かいだんとして、天下の三戒壇本朝ほんちょう三戒壇)が設けられました。

  1. 大和の東大寺とうだいじ(奈良県) ― 中央戒壇
  2. 下野しもつけ薬師寺やくしじ(栃木県) ― 東戒壇
  3. 筑紫つくし観世音寺かんぜおんじ(福岡県) ― 西戒壇

これらの戒壇で正式な授戒を受けなければ、真の僧として認められないという制度が確立されました。

これにより私度僧の問題が改善されました。

大和の東大寺

奈良時代の東大寺の模型
東大寺の模型

754年に東大寺に戒壇が設けられ、聖武しょうむ上皇光明こうみょう皇太后孝謙こうけん天皇が、鑑真からかいを授けられました。

下野の薬師寺

のちに道鏡どうきょうが左遷される場所として有名です。

筑紫の観世音寺

玄昉
玄昉

のちに玄昉げんぼうが左遷される場所として有名です。

唐招提寺の建立

唐招提寺
唐招提寺金堂

759年、鑑真のための寺院として唐招提寺とうしょうだいじが建立されました。

鑑真が律宗の教えを広めるための拠点となりました。

鑑真像

唐招提寺の鑑真像
唐招提寺の鑑真像

唐招提寺の鑑真像は、鑑真の晩年の姿を仏像にしたものだといわれています。

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