755年 安史の乱

安禄山
安禄山
語呂合わせ

名ここ(755)に刻む、安史の乱

安史あんしの乱は、とう節度使せつどしである安禄山あんろくざん史思明ししめいが起こした反乱です。

唐王朝の衰退のきっかけとなりました。

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節度使の台頭

唐は、北方の外敵に備え、辺境地域に節度使と呼ばれる軍司令官を配置しました。

節度使は、次第に軍事権だけではなく、財政権も持つようになり半独立的な存在へと成長していきました。

安禄山と楊国忠の対立

節度使の安禄山は、玄宗の信頼を得て、3つの節度使を兼任するまでになりました。

安禄山は、突厥人とっけつじんとソグド人の混血といわれています。

これに警戒した宰相の楊国忠ようこくちゅうは、安禄山を失脚させようと画策し、それを察知した安禄山は反乱を決意しました。

楊国忠は、玄宗の寵姫である楊貴妃ようきひの従兄です。

安禄山の乱 ― 玄宗の逃亡と楊貴妃の死

安禄山は「楊国忠の圧政を正す」ことを口実に挙兵しました。

安禄山の率いる反乱軍が、長安へ迫ると、玄宗は寵姫の楊貴妃を伴って、蜀(四川)へ逃亡を図りました。

逃亡の途中で、楊国忠が部下に殺され、さらに、兵士たちの要求で楊貴妃が処刑されました。

安禄山の暗殺

安禄山は、洛陽を占領すると大燕皇帝を名乗りました。

しかし部下との対立が激化し、息子の安慶緒あんけいしょに暗殺されました。

史思明の乱 ― 乱の長期化と鎮圧

安禄山の部下であった史思明は、安禄山の息子の安慶緒を殺害し、反乱を継続しました。

しかし、その史思明も息子の史朝義しちょうぎに暗殺されました。

その後、史朝義も唐に敗れて自殺し、反乱は鎮圧されました。

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