語呂合わせ
難航、仲(757)間割れ、橘奈良麻呂の変
橘奈良麻呂の変は、橘奈良麻呂が藤原仲麻呂(後の恵美押勝)の専横に対抗して起こしたクーデター未遂事件です。
目次
藤原仲麻呂の台頭
橘奈良麻呂の乱を理解するには、まず藤原仲麻呂(後の恵美押勝)がどのようにして権力を握ったかを知る必要があります。
光明皇太后の後ろ盾で権力を握る
藤原仲麻呂は、藤原四兄弟の長男、藤原武智麻呂(南家)の子です。
さらに、聖武天皇の皇后である光明皇太后の甥でもありました。
光明皇太后(光明子)は藤原不比等の娘で、天皇の母として強大な影響力を持っていました。
この血縁関係を背景に、仲麻呂は政治の中枢に食い込んでいきます。
紫微中台の設置
756年、仲麻呂は政治制度の大改革に着手します。
それが「紫微中台」の設置です。
紫微中台は、光明皇太后の下に置かれた特別な政治機関で、従来の太政官制度とは別系統の組織でした。
仲麻呂はこの紫微中台の長官である「紫微令」に就任し、強力な権力を手にしたのです。
養老律令の施行
さらに仲麻呂は、757年に養老律令を施行します。
養老律令は、元正天皇の時代(718年)に藤原不比等が編纂したものの、長らく施行されずにいた法典でした。
仲麻呂はこの律令を施行することで、法制度の整備と自身の政治的正統性の確立を図りました。
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橘奈良麻呂の反発
一方、このような藤原仲麻呂の急激な権力拡大に強い危機感を抱いたのが、橘奈良麻呂でした。
橘奈良麻呂は、橘諸兄の子で、名門橘氏の出身です。
父の諸兄は聖武天皇時代に左大臣として長期間政権を担い、奈良時代前期の政治を主導していました。
仲麻呂の専横的な政治手法に対する不満が、反発を強める要因となっていました。
距離を置く大伴家持
興味深いことに、この時期の政治情勢について、万葉集の編纂者として知られる大伴家持は、明確な立場を取ることを避けています。
家持は橘奈良麻呂とも親交があったものの、反乱への参加は慎重に回避したとされています。
この判断が、後に家持が政治的に生き残る要因となりました。
反乱計画の発覚と処罰
757年、ついに橘奈良麻呂の反乱計画が発覚します。
計画は実行に移される前に密告により露見し、奈良麻呂をはじめとする関係者は逮捕されました。
橘奈良麻呂は、獄死することになります。
淳仁天皇の即位
橘奈良麻呂の乱が鎮圧された同年、藤原仲麻呂の後ろ盾で、大炊王が淳仁天皇として即位します。
淳仁天皇は、舎人親王の子です。
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