語呂合わせ
名、無視(764)して、恵美押勝の乱
恵美押勝の乱(藤原仲麻呂の乱)は、藤原仲麻呂が孝謙上皇に信任された道鏡を排除しようと起こした反乱です。
反乱は失敗し、藤原仲麻呂は敗死しました。
目次
藤原仲麻呂から恵美押勝へ
藤原仲麻呂は、藤原四兄弟の長男、藤原武智麻呂(南家)の次男です。
聖武天皇の皇后である光明皇太后の後ろ盾により、段階的に昇進を重ねていきます。
特に、橘奈良麻呂が失脚した後、その影響力は絶大なものとなりました。
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そして、藤原仲麻呂は淳仁天皇から「恵美押勝」の名を賜ります。
これは、「人民を恵む美が優れ、乱を防いで押し勝つ」という功績を讃える名称です。
大師、恵美押勝
760年には、恵美押勝は、臣下として初めて大師(太政大臣)にまで昇進します。
太政大臣は、今まで親王しかなれなかった地位です。
彼は光明皇太后の絶大な信頼を背景に、政治的な影響力を行使していました。
特に、唐への憧れの強かった恵美押勝は、国内の官職名を唐風に改める政策を実行します。
権力の三重構造
この時期の政治体制は複雑で、名目上は淳仁天皇が統治者でしたが、実権は恵美押勝が握り、さらに孝謙上皇も政治に口を出すという三重構造になっていました。
この不安定な権力構造が、後の対立の火種となっていきます。
光明皇太后の死
光明皇太后
ところが、その後、恵美押勝の最大の後ろ盾であった光明皇太后が崩御します。
彼女の絶大な権威に支えられていた恵美押勝の政治基盤は、一気に不安定になりました。
孝謙上皇の不満
孝謙天皇
孝謙上皇は、これまで母である光明皇太后への配慮から恵美押勝と表立った対立を避けてきました。
しかし、その束縛から解放されると、恵美押勝に対する不満を露わにするようになります。
道鏡の登場
道鏡
菊池容斎, CC BY 4.0, via Wikimedia Commons
この頃から、孝謙上皇の側近として道鏡という僧侶が頭角を現します。
道鏡は、孝謙上皇の病気を祈祷によって治したことがきっかけで、急速に寵愛を受けるようになりました。
道鏡の登場は、恵美押勝にとって大きな脅威となりました。
孝謙上皇と淳仁天皇の対立
その後、道鏡の処遇をめぐって、孝謙上皇と淳仁天皇の間で深刻な対立が生じます。
孝謙上皇は道鏡をさらに重用しようとしましたが、淳仁天皇と恵美押勝はこれに強く反対したのです。
これに対して、孝謙上皇は「国家の小事は天皇が、大事は上皇である自らが行う」と宣言を発しました。
これは実質的に淳仁天皇から政治権力を剥奪する宣言であり、淳仁天皇と恵美押勝は完全に孤立することになります。
恵美押勝の乱
764年、ついに恵美押勝は武力による政権奪還を決意しました。
恵美押勝の乱(藤原仲麻呂の乱)の始まりです。
孝謙上皇は素早く対応し、恵美押勝を「謀反人」として討伐の命令を下しました。
坂上苅田麻呂の活躍
坂上苅田麻呂
孝謙上皇側の討伐軍で活躍したが、坂上苅田麻呂でした。
坂上苅田麻呂は後に征夷大将軍となる坂上田村麻呂の父にあたる人物で、弓の名手として知られていました。
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乱の終結
恵美押勝は、琵琶湖の西岸で朝廷の軍に追い詰められ、ついに討ち死にしました。
また、恵美押勝に同調した淳仁天皇も廃位され、淡路島に配流となりました。
淳仁天皇は765年に淡路島で亡くなっており、この経緯から「淡路廃帝」とも呼ばれています。
この乱の結果、藤原仲麻呂の系統(南家)は政治的に大きく後退することになりました。
孝謙上皇改め称徳天皇
恵美押勝の乱の鎮圧後、孝謙上皇は、称徳天皇として再び皇位に就きました。
これを重祚といいます。
なお、重祚の例は、飛鳥時代に皇極天皇が斉明天皇となった例と合わせて、2例のみです。
覚え方
『交際と交渉』(重祚の2例)
交 = 皇極天皇
際 = 斉明天皇
交 = 孝謙天皇
渉 = 称徳天皇
称徳天皇は、乱による死者の冥福を祈るため、百万塔をつくったといわれています。
その後、称徳天皇は、さらに道鏡を重用することになります。