769年 宇佐八幡宮神託事件

和気清麻呂
和気清麻呂
語呂合わせ

南無なむく(769)そ、宇佐うさ八幡宮はちまんぐうしん神託事件しんたくじけん

宇佐うさ八幡宮はちまんぐうしん神託事件しんたくじけんは、称徳しょうとく天皇の寵臣である道鏡どうきょうが、宇佐八幡宮の神託を利用して皇位を狙った事件です。

和気わけの清麻呂きよまろが神託を否定し、道鏡の即位を阻止しました。

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称徳天皇の後継者問題

孝謙天皇
称徳天皇

奈良時代末期、称徳しょうとく天皇には子供がおらず後継者がいないという深刻な問題を抱えていました。

道鏡の台頭

道鏡
道鏡

この頃、頭角を現したのが道鏡どうきょうという僧侶でした。

道鏡は法相宗ほっそうしゅうの僧侶でしたが、称徳しょうとく天皇の病気を祈祷で治したことから絶大な信頼を得るようになります。

宇佐八幡宮の神託

宇佐八幡宮
宇佐八幡宮

769年、事態は急展開を見せます。

宇佐うさ八幡宮はちまんぐうしんから「道鏡を天皇にすれば天下は安泰になる」という神託あったと報告されたのです。

称徳しょうとく天皇にとっては、後継者問題を解決する絶好の機会と映ったでしょう。

和気清麻呂の派遣

真偽を確かめるため、称徳しょうとく天皇は、和気わけの清麻呂きよまろを宇佐八幡宮に派遣することにしました。

和気清麻呂は備前びぜんくにの出身で、姉の和気わけの広虫ひろむしとともに朝廷に仕えていた忠実な臣下でした。

広虫は孤児の養育事業で知られた慈悲深い女性で、清麻呂も誠実な人柄で知られていました。

真の神託の内容

宇佐うさ八幡宮はちまんぐうしんを訪れた和気わけの清麻呂きよまろが聞いた神託は、称徳しょうとく天皇道鏡どうきょうが期待したものとは全く異なるものでした。

神託の内容は「日本は建国以来、君主と臣下の区別が明確に定まっている。臣下を君主にすることはありえない。必ず皇室の血筋を継ぐ者を立てるべし」という、道鏡の即位を明確に否定する内容でした。

和気清麻呂への処罰

この報告を聞いた称徳しょうとく天皇道鏡どうきょうは激怒しました。

清麻呂は嘘の報告をしていると疑われ、厳しい処罰を受けることになります。

和気わけの清麻呂きよまろ別部わけべの穢麻呂きたなまろに改名され大隅おおすみのくに(現在の鹿児島県)へと流罪、姉の和気わけの広虫ひろむし別部わけべの狭虫さむしに改名され備後びんごのくに(現在の広島県)へと流罪になりました。

称徳天皇の崩御

翌770年に状況は一変します。称徳しょうとく天皇が突然崩御したのです。

これにより、道鏡の権力の源泉が失われました。

道鏡は薬師寺に左遷

権力の源泉が失われた道鏡どうきょうは、下野しもつけ(現在の栃木県)の薬師寺やくしじへ左遷され、政治の表舞台から退きました。

天武系から天智系へ

宇佐八幡宮神託事件の後、天皇の皇位継承は、天武天皇系から天智天皇系に移行していきます。

式家、藤原百川の暗躍

藤原百川
藤原百川

藤原ふじわらの百川ももかわらの工作により、天智てんじ天皇の孫である白壁王しらかべおう光仁こうにん天皇として即位しました。

藤原百川は、藤原四兄弟の三男、式家しきけ、藤原宇合うまかいの子です。兄は藤原広嗣ひろつぐです。

これにより、天武てんむ天皇系から天智てんじ天皇系への皇統の移行が実現したのです。

光仁天皇は当時すでに60歳を超えており、中継ぎ的な性格の強い即位でしたが、この選択により皇統は大きく変化することになりました。

桓武天皇の即位と平安時代への道

桓武天皇
桓武天皇

781年、光仁天皇の皇子である山部やまべ親王桓武かんむ天皇として即位しました。

桓武天皇は平安京遷都を行い、平安時代を開く重要な天皇となります。

この皇統の変化により、天武天皇系による律令国家の時代から、天智天皇系による新たな時代へと移行していくことになるのです。

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