801年 坂上田村麻呂の蝦夷征討

坂上田村麻呂
坂上田村麻呂
語呂合わせ

やれ行(801)け、坂上田村麻呂の蝦夷征討

坂上田村麻呂さかのうえのたむらまろは、桓武かんむ天皇から征夷大将軍せいいたいしょうぐんに任命され、蝦夷えみしの族長である阿弖流爲アテルイを降伏させました。

坂上田村麻呂の活躍によって、長年続いた東北地方の蝦夷との対立に一区切りがつきます。

目次

朝廷と蝦夷の対立 ― 伊治呰麻呂の乱(780年)

奈良時代の終わりごろ、光仁こうにん天皇の時代に、朝廷は東北地方への支配を強めようとしていました。

光仁天皇は、桓武かんむ天皇の父親で、天智てんじ天皇の孫です。

しかし、現地に住む蝦夷はこれに激しく反発し、服属していた伊治呰麻呂これはりのあざまろが反乱を起こし、多賀城たがじょうを占拠しました。

紀古佐美が阿弖流爲に大敗(789年)

朝廷は反乱の鎮圧と蝦夷支配を進めるため、たびたび軍を派遣しました。

789年には、紀古佐美きのこさみ征東大使せいとうたいしとして出兵しますが、蝦夷の指導者 阿弖流爲の巧みな戦術によって大敗を喫します。

坂上田村麻呂の蝦夷征討(801年)

その後、朝廷はより確実な征討を目指し、坂上田村麻呂を起用します。

彼は797年に征夷大将軍に任命され、801年に大軍を率いて蝦夷の地へ進軍しました。

坂上田村麻呂は、軍事的な強さに加え、現地との交渉力にも優れた人物であり、朝廷と蝦夷の対立に終止符を打つことに成功します。

阿弖流爲の降伏

801年の遠征の結果、蝦夷の指導者阿弖流爲は降伏しました。

田村麻呂は二人を平安京へ連行し、助命を願ったと伝えられますが、最終的に処刑されてしまいます。

この処置は、蝦夷の再蜂起を恐れた朝廷の判断だったと考えられています。

蝦夷支配の強化 ― 胆沢城の築城

征討ののち、坂上田村麻呂は、蝦夷支配の拠点として胆沢城いさわじょうを築きます。

これは現在の岩手県奥州市に位置し、それまでの多賀城に代わる東北統治の中心となりました。

胆沢城の建設により、朝廷の支配は東北地方に深く根を下ろすことになります。

目次