805年 最澄、天台宗を伝える

最澄
最澄
語呂合わせ

晴れてご(805)縁の、天台宗てんだいしゅう

覚え方

『天才と真空』(最澄と空海の宗派)

天 = 天台宗てんだいしゅう

才 = 最澄さいちょう

真 = 真言宗しんごんしゅう

空 = 空海くうかい

天台宗てんだいしゅうは、最澄さいちょうによってから日本に伝えられ、日本で成立した仏教の宗派です。

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桓武天皇と遣唐使

桓武天皇
桓武天皇

桓武かんむ天皇(在位781-806年)は、奈良の旧仏教勢力の政治介入を嫌い、新都・平安京へいあんきょうに相応しい新しい仏教を求めていました。

そのような中、最澄さいちょうの才能が天皇の目に留まり、804年に遣唐使の一員として唐に派遣されることが決まりました。

唐で天台宗を学ぶ

804年、最澄さいちょうは遣唐使としてに渡り、天台山に登って天台宗てんだいしゅうを学びました。

この時、別の遣唐使船には後に真言宗を開く空海が乗っていました。

二人の若い僧の唐での学びが、その後の日本仏教を大きく変えることになるのです。

天台宗の教え

805年に帰国した最澄さいちょうは、すぐに桓武天皇に唐での成果を報告し、天台宗の開宗が認められました。

天台宗は、法華経を根本経典とし、経典を学び修行によって悟りを開こうとする仏教の宗派です。

比叡山延暦寺の建立

最澄さいちょうは、自らの修行の地でもあった比叡山ひえいざんを拠点とし、そこに延暦寺えんりゃくじを建立しました。

王城鎮護

延暦寺は平安京の北東(鬼門きもん)に位置し、都の災厄を防ぐ王城鎮護おうじょうちんごの役割を担いました。

延暦寺は、天台宗の総本山として発展し、やがて日本仏教の中心的な存在となっていきます。

南都仏教との対立

最澄さいちょうは、天下の三戒壇さんかいだんとは別に独自の戒壇である大乗だいじょう戒壇かいだんの設立を願い出ます。

これにより南都(奈良)の仏教寺院と激しい対立を引き起こします。

なお、天下の三戒壇は、以下の3つです。

  1. 大和の東大寺とうだいじ(奈良県) ― 中央戒壇
  2. 下野しもつけ薬師寺やくしじ(栃木県) ― 東戒壇
  3. 筑紫つくし観世音寺かんぜおんじ(福岡県) ― 西戒壇

山家学生式

山家さんげ学生がくしょうしきは、天台宗の僧を養成するための規則をまとめたものです。

この中で、天台宗独自の大乗だいじょう戒壇かいだんの設立と修行を主張しました。

これに対して南都仏教からは大きな批判を浴びることになります。

顕界論

南都仏教からの批判に対して、最澄さいちょう顕界論けんかいろんで反論します。

この論争は最澄の生前には決着がつかず、最澄の死後7日目(822年)にようやく勅許が下り、大乗だいじょう戒壇かいだんの設立が認められました。

伝教大師の称号

最澄さいちょうは822年に亡くなりましたが、その功績は後の時代に高く評価されました。

866年、「伝教大師でんぎょうだいし」の諡号が贈られました。

これは日本で最初に「大師」号を贈られた僧侶であり、最澄の偉大さを物語っています。

円仁・円珍による発展

最澄の死後、天台宗は、円仁えんにん(794-864年)や円珍えんちん(814-891年)といった弟子たちによってさらに発展します。。

しかし、密教に対する考え方の違いで、山門派寺門派に分裂してしまいます。

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