842年 承和の変

文徳天皇
文徳天皇(道康親王)
語呂合わせ

野心に(842)燃える、承和じょうわの変

承和じょうわの変は、藤原ふじわらの良房よしふさが、皇太子だった恒貞つねさだ親王を退け、甥の道康みちやす親王(のちの文徳もんとく天皇)を皇太子にした政変です。

恒貞親王を支持したともの健岑こわみねたちばなの逸勢はやなりは流罪となりました。

この政変は、藤原北家ほっけによる最初の他氏排斥事件といわれています。

藤原良房は、藤原冬嗣ふじわらのふゆつぐの子です。

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藤原冬嗣の子、良房の台頭

藤原冬嗣
藤原冬嗣

嵯峨さが天皇は平安初期の天皇で、その治世において重用されたのが、藤原冬嗣ふゆつぐでした。

冬嗣は藤原北家出身で、蔵人頭くろうどのとうの制度創設などを通じて、天皇の側近政治を支えました。

また、弘仁格式の編纂にも携わりました。

藤原良房

藤原良房
藤原良房

藤原冬嗣の次男の藤原良房よしふさもまた、嵯峨天皇に抜擢され、政界において影響力を強めていきます。

兄・嵯峨天皇と弟・淳和天皇

823年、嵯峨天皇は譲位し、嵯峨上皇となります。そして、弟の大伴おおとも親王が淳和じゅんな天皇として即位します。

その後、嵯峨天皇の子仁明にんみょう天皇が皇位を継ぎ、淳和天皇の子である恒貞つねさだ親王が皇太子となります。

恒貞親王の廃太子

恒貞親王
廃太子となった恒貞親王

842年、嵯峨上皇が崩御した直後、藤原良房よしふさは、自分と血縁関係のない恒貞つねさだ親王を廃太子に追い込みます。

これに連座した恒貞親王の後見人であるともの健岑こわみねと、書の名手として知られるたちばなの逸勢はやなりは、謀反の嫌疑をかけられ、流罪となりました。

この政変によって、恒貞親王派は完全に排除され、藤原北家の一強体制が確立されていきます。

伴健岑

ともの健岑こわみねは、ヤマト政権以来の名門の大伴おおともです。

大伴おおとも親王が、淳和じゅんな天皇として即位した際に、天皇の名と同じことをはばかって、伴氏に名を変えていました。

橘逸勢

たちばなの逸勢はやなりは、空海最澄と共に遣唐使で唐に渡った人物で、橘奈良麻呂の孫にあたります。

書の達人で三筆の一人としても有名です。

覚え方

『くさった、三筆』(三筆さんぴつ

く = 空海くうかい

さ = 嵯峨さが天皇

た = たちばなの逸勢はやなり

良房の甥・文徳天皇の即位

恒貞つねさだ親王の後に皇太子とされた道康みちやす親王は、のちに文徳もんとく天皇として即位します。

文徳天皇の母は、藤原良房の妹・順子じゅんしであり、良房よしふさの甥にあたります。

承和の変は、藤原北家の最初の他氏排斥事件であり、のちに藤原良房は更なる権力を握るようになります。

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