承和の変は、藤原良房が、皇太子だった恒貞親王を退け、甥の道康親王(のちの文徳天皇)を皇太子にした政変です。
恒貞親王を支持した伴健岑・橘逸勢は流罪となりました。
この政変は、藤原北家による最初の他氏排斥事件といわれています。
藤原良房は、藤原冬嗣の子です。
目次
藤原冬嗣の子、良房の台頭
藤原冬嗣
嵯峨天皇は平安初期の天皇で、その治世において重用されたのが、藤原冬嗣でした。
冬嗣は藤原北家出身で、蔵人頭の制度創設などを通じて、天皇の側近政治を支えました。
また、弘仁格式の編纂にも携わりました。
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藤原良房
藤原良房
藤原冬嗣の次男の藤原良房もまた、嵯峨天皇に抜擢され、政界において影響力を強めていきます。
兄・嵯峨天皇と弟・淳和天皇
823年、嵯峨天皇は譲位し、嵯峨上皇となります。そして、弟の大伴親王が淳和天皇として即位します。
その後、嵯峨天皇の子の仁明天皇が皇位を継ぎ、淳和天皇の子である恒貞親王が皇太子となります。
恒貞親王の廃太子
廃太子となった恒貞親王
842年、嵯峨上皇が崩御した直後、藤原良房は、自分と血縁関係のない恒貞親王を廃太子に追い込みます。
これに連座した恒貞親王の後見人である伴健岑と、書の名手として知られる橘逸勢は、謀反の嫌疑をかけられ、流罪となりました。
この政変によって、恒貞親王派は完全に排除され、藤原北家の一強体制が確立されていきます。
伴健岑
伴健岑は、ヤマト政権以来の名門の大伴氏です。
大伴親王が、淳和天皇として即位した際に、天皇の名と同じことをはばかって、伴氏に名を変えていました。
橘逸勢
橘逸勢は、空海や最澄と共に遣唐使で唐に渡った人物で、橘奈良麻呂の孫にあたります。
書の達人で三筆の一人としても有名です。
覚え方
『くさった、三筆』(三筆)
く = 空海
さ = 嵯峨天皇
た = 橘逸勢
良房の甥・文徳天皇の即位
恒貞親王の後に皇太子とされた道康親王は、のちに文徳天皇として即位します。
文徳天皇の母は、藤原良房の妹・順子であり、良房の甥にあたります。
承和の変は、藤原北家の最初の他氏排斥事件であり、のちに藤原良房は更なる権力を握るようになります。
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