842年 承和の変

文徳天皇
文徳天皇
語呂合わせ

野心に(842)燃える、承和の変

承和じょうわの変は、嵯峨さが天皇の死後、皇太子だった恒貞つねさだ親王を退け、道康みちやす親王(のちの文徳もんとく天皇)を皇太子にした政変です。

藤原良房ふじわらのよしふさが主導して行われ、恒貞親王を支持した伴健岑とものこわみね橘逸勢たちばなのはやなりは流罪となりました。

この政変は、藤原北家ほっけが政界での地位を確固たるものにした転換点になりました。

藤原良房は、藤原冬嗣ふじわらのふゆつぐの子です。

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嵯峨天皇と藤原冬嗣

嵯峨さが天皇は平安初期の天皇で、その治世において重用されたのが、藤原冬嗣でした。

冬嗣は藤原北家出身で、蔵人頭くろうどのとうの制度創設などを通じて、天皇の側近政治を支えました。

冬嗣の死後、その子・藤原良房が政界において影響力を強めていくことになります。

恒貞親王の立太子

嵯峨天皇の後を継いだ淳和じゅんな天皇は、恒貞親王(嵯峨天皇の皇子)を皇太子に立てました。

恒貞親王の立太子は、皇族出身者や非藤原系の貴族にとって、藤原氏の勢力抑制に期待が寄せられるものでした。

恒貞親王の外戚は伴健岑であり、彼をはじめとする一派は、藤原北家とは異なる勢力を形成していました。

恒貞親王の廃太子と伴・橘両名の失脚

842年、嵯峨上皇が崩御した直後、藤原良房は、自分と血縁関係のない恒貞親王を廃太子に追い込みます。

これに連座した恒貞親王の後見人である伴健岑と、書の名手として知られる橘逸勢は、謀反の嫌疑をかけられ、流罪となりました。

この政変によって、恒貞親王派は完全に排除され、藤原北家の一強体制が確立されていきます。

文徳天皇と藤原良房

恒貞親王の後に皇太子とされた道康親王は、のちに文徳天皇として即位します。

彼の母は藤原良房の妹・順子であり、藤原良房は外祖父として絶大な政治的影響力を持つことになります。

承和の変は、藤原良房が摂政へと上り詰め、藤原氏による摂関政治の道を切り開く布石となりました。

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