897年 滝口の武者(滝口の武士)の設置

宇多天皇
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語呂合わせ

焼くな(897)清涼殿、滝口たきぐちの武者の設置

宇多うだ天皇の時代、滝口たきぐちの武者滝口の武士)と呼ばれる天皇の身辺警護のための武者たちが設置されました。

これが後の武士につながる重要な起点とされます。

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寛平の治 ― 宇多天皇の親政

関白を務めていた藤原ふじわらの基経もとつねが没すると、宇多うだ天皇は自ら政治の主導権を握ります。

宇多天皇は、菅原すがわらの道真みちざね蔵人くろうどのとうに任命し藤原氏の勢力を抑え、天皇親政を目指した天皇として知られています。​

天皇親政とは、摂政や関白を置かず、天皇自ら政治をすることです。

宇多天皇の親政期を「寛平かんぴょう」といいます。

滝口の武者 ― 天皇の身辺警護

宇多うだ天皇は、天皇の身辺警護を強化するために、滝口たきぐちの武者滝口の武士)を設置しました。​

滝口の武者とは、天皇の身辺警護のための武装した兵士たちのことです。

清涼殿せいりょうでん滝口と呼ばれる場所を詰め所にしていたことから、この名があります。

主に地方の有力豪族の子弟が任命され、武芸に長けた者たちでした。

のちの藤原忠平の時代に、平将門滝口の武者として宮中を警備することになります。

武士の原型へ

滝口たきぐちの武者のような、武力で天皇や貴族を支える役職は、やがて武士団の形成へとつながっていきます。

そのため、滝口の武者は「武士の原型」と見なされることが多いのです。

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