901年 昌泰の変

菅原道真
雷を起こす菅原道真
語呂合わせ

苦を一(901)身に背負う道真、昌泰しょうたいの変

昌泰しょうたいの変は、藤原ふじわらの時平ときひら讒言ざんげんによって菅原すがわらの道真みちざね太宰府だざいふ左遷させんされた事件です。

目次

寛平の治 ― 宇多天皇の親政

宇多天皇
宇多天皇

宇多うだ天皇は、関白・藤原基経もとつねの死後、藤原氏に偏らない政治を目指し、学識に優れた菅原すがわらの道真みちざねを登用しました。

宇多天皇が、摂政や関白を置かず、天皇親政をとった時期を、寛平かんぴょうといいます。

道真は遣唐使けんとうしの廃止の建議などを行い、朝廷で存在感を強めていきます。

寛平の御遺誡

897年、宇多うだ天皇は、息子の醍醐だいご天皇に位を譲ります。

その時に宇多天皇は、「寛平かんぴょう遺誡ゆいかい」と呼ばれる天皇の心得を記した訓戒書を渡します。

まもなく、宇多天皇は出家し、宇多上皇としてにんに入ります。

仁和寺の宇多上皇の住まいは、むろといわれました。

延喜の治 ― 醍醐天皇の親政

醍醐天皇
醍醐天皇

ここから、醍醐だいご天皇の親政「延喜えんぎ」が始まります。

台頭する藤原時平

藤原時平
藤原時平

醍醐だいご天皇の下で、菅原すがわらの道真みちざね右大臣藤原ふじわらの時平ときひら左大臣にまで昇進します。

藤原時平は、藤原基経もとつねの子で、道真より若年でしたが、若くして常設のナンバー1の官職である左大臣まで上り詰めます。

一方の道真は、ナンバー2の官職である右大臣につきます。

時平は左大臣、道真は右大臣として並び立ちますが、次第に対立が深まっていきます。

昌泰の変 ― 菅原道真の左遷

菅原道真
菅原道真の左遷

901年、藤原ふじわらの時平ときひらの策謀により、「菅原すがわらの道真みちざねが皇太子を廃しようとした」という疑惑が醍醐だいご天皇に伝えられます。

時平の讒言を信じた醍醐天皇により、菅原すがわらの道真みちざねは、太宰だざいの権帥ごんのそちに任命され、太宰府だざいふに左遷されてしまいます。

これが昌泰しょうたいの変です。

左遷された道真は失意のうちに亡くなります。

東風吹かば…

菅原道真は、左遷される際に、家の梅の木に語りかけるように歌を詠んだと伝えられています。

東風こち吹かば 匂いおこせよ梅の花 主なしとて春を忘るな

(東から春風が吹いたら、その香りを運んでおくれ、梅の花よ。主が居ないからといって春を忘れてはいけないよ。)

御霊信仰

道真の死後、清涼殿せいりょうでんへの落雷や疫病といった出来事が続き、これらは左遷された菅原すがわらの道真みちざねのたたりだと考えられるようになりました。

清涼殿は、天皇の住まいがあった場所です。

このように、怨霊おんりょうが災いをもたらすという信仰を御霊ごりょう信仰といいます。

御霊会

怨霊の鎮魂のために御霊会ごりょうえという祭が催されます。

最も古い御霊会は、863年の平安京の神泉苑しんせんえんで行われた早良親王や橘逸勢などの怨霊を鎮めるためのものだったとされています。

北野天満宮 ― 学問の神様

北野天満宮
北野天満宮

菅原道真の場合は、御霊会ごりょうえのほか、右大臣に復職させるなど名誉回復を図り、最終的には、神様としてまつることにしました。

京都には北野きたの天満宮てんまんぐうが建てられ、今日では「学問の神様」として信仰を集めています。

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