907年 唐の滅亡、五代十国時代の始まり

朱全忠
朱全忠
語呂合わせ

苦をな(907)して、唐の滅亡、五代十国時代の始まり

覚え方

『五代の王朝の順番』

後梁 → 後「唐」 → 後「晋」 → 後「漢」 → 後「周」

王朝が変わるたびに、逆順に古い王朝名を付けている。

朱全忠しゅぜんちゅうが、とうの皇帝から禅譲ぜんじょうを受けて後梁こうりょうを建国し、唐王朝は滅亡します。

以後、北方では短命の王朝が相次いで交代する「五代ごだい」、南方では地方政権が割拠する「十国じっこく」が成立し、「五代十国ごだいじっこく時代」と呼ばれる分裂期へと突入します。

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唐末の混乱と朱全忠の台頭

唐王朝末期は、黄巣こうそうの乱によって、中央の統制力が著しく低下していました。

その中で頭角を現したのが、かつて黄巣軍の一員だった朱温しゅおん(のちの朱全忠)です。

彼は唐に寝返って功績を挙げ、朱全忠の名を賜り、藩鎮はんちんとして勢力を拡大していきました。

藩鎮とは、自立した節度使せつどしのことです。

朱全忠、唐を滅ぼして後梁を建国

907年、朱全忠は、唐の皇帝から禅譲を受けて、後梁を建国。

首都を洛陽らくようではなく開封かいほうに置き、事実上、唐王朝を終焉に導きました。

こうして約300年続いた唐の時代は幕を閉じ、中国は分裂の時代に突入します。

五代十国時代とは?

唐の滅亡後、華北では「五代」と呼ばれる短命の王朝(後梁後唐こうとう後晋こうしん後漢こうかん後周こうしゅう)が次々と興亡し、華中、華南では「十国」と呼ばれる地域政権が並立しました。

この期間(907年〜960年)を総称して「五代十国時代」と呼びます。

後晋と燕雲十六州の割譲

この時代には、内乱に乗じて異民族のりょうキタイ契丹きったん)も介入します。

936年、後晋の初代皇帝・石敬瑭せきけいとうは、遼の援助で即位した見返りに、中国北部の要衝・燕雲十六州えんうんじゅうろくしゅうを割譲。

この地の喪失は、後の宋(北宋)にとって大きな安全保障上の課題となります。

遼(キタイ、契丹)

北方のキタイ契丹)はモンゴル系遊牧民で、後晋を助けて中国内政に強く関与しました。

後にりょうという国号を名乗り、中国北部を支配していきます。

後周の世宗と改革

後周の世宗
後周の世宗(柴栄)

五代の最後となる後周では、名君として知られる世宗せいそう柴栄さいえい)が登場。

内政・軍政改革を進めて短期間ながらも安定をもたらし、仏教寺院を整理する廃仏はいぶつ(仏教弾圧)も実施しました。

だが彼の早すぎる死により王朝は崩れていきます。

最後の「三武一宗の法難」

後周世宗が実施した廃仏は、中国で行われた4回の大規模な仏教弾圧である三武一宗さんぶいっそう法難ほうなんの最後に位置づけられます。

三武一宗の法難は、北魏の太武帝(446年)、北周の武帝(574年)、唐の武宗(845年)、そして後周の世宗(955年)によって行われました。

馮道 ― 「清廉な官僚」か「変節漢」か

馮道
馮道

後梁以外の五代王朝(後唐、後晋、後漢、後周)に仕えた官僚として知られるのが馮道ふうどうです。

政権が次々と倒れる中、彼はどの王朝でも要職に就きました。

そのため、「節操のない日和見主義」との批判もある一方で、「乱世でも民を思い、安定を願った真の官僚」と評価する声もあります。

南方では十国が割拠

五代が北方王朝であったのに対し、十国とは華中や江南に成立した地方政権群を指します。

前蜀ぜんしょく後蜀こうしょく南唐なんとう荊南けいなん呉越ごえつびん南漢なんかん北漢ほくかんが該当します。

宋による統一

960年、趙匡胤ちょうきょういんが後周を滅ぼしてそう北宋ほくそう)を建国します。

その後、北宋は、十国も平定し中国の再統一を果たします。

こうして、五代十国時代は終焉し、安定した文治主義の時代へと移っていくことになります。

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