451年 カタラウヌムの戦い

フン族
フン人
語呂合わせ

進行、一(451)気に、カタラウヌムの戦い

カタラウヌムの戦いは、西ローマ帝国ゲルマン人の連合軍が、フン人の王アッティラの軍勢を迎え撃ち、その西ヨーロッパ進出を阻止した戦いです。

この記事では、カタラウヌムの戦いについて整理し、高校世界史で問われやすいポイントをわかりやすく解説します。

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フン人の西征

フン人
フン人

中央アジアの遊牧民であるフン人は、4世紀後半、人口増加や気候変動による放牧地不足から西征を開始しました。

この動きによって、東ヨーロッパのゲルマン民族が圧迫され、ゲルマン民族の大移動が引き起こされます。

その結果、ローマ帝国は深刻な混乱に陥り、395年には東ローマ帝国と西ローマ帝国に分裂しました。

西ローマ帝国の混乱

西ローマ帝国は、経済力や軍事力に乏しい状況の中で、410年には西ゴート人によるローマ略奪を受けるなど、危機的な状況が続きました。

それでも西ローマ帝国は、西ゴート人を同盟者として取り込みながら、なんとか体制を維持しようとします。

東ローマ帝国の対応

一方、東ローマ帝国では、キリスト教の教義統一を通じて帝国の結束を保とうとする動きが進められました。

431年のエフェソス公会議を通じて、キリスト教の教義統一が国家統治の重要な柱となっていきます。

アッティラ大王の出現

アッティラ
アッティラ

フン人は、西進する過程で、ドナウ川中流のパンノニア(現在のハンガリー)に拠点を置くようになりました。

ハンガリーは、「フンの地」という意味が由来と言われることがあります。

やがて、フン人の中からアッティラ大王が出現すると、最盛期を迎えます。

フン帝国は、中央アジアから現在のドイツまで支配する大帝国を築きました。

カタラウヌムの戦い

451年、アッティラは、西ヨーロッパに侵入し、カタラウヌム平原で西ローマ帝国ゲルマン人(西ゴート人、フランク人など)の連合軍と衝突しました。

これがカタラウヌムの戦いです。

激戦の結果、アッティラ軍は大打撃を受けて、西ヨーロッパへの進出は阻止されました。

ヨーロッパを救った戦い

カタラウヌムの戦いによって、フン人が西ヨーロッパを支配する事態は回避されました。

そのことから「ヨーロッパを救った戦い」と称されることもあります。

ローマ教皇レオ1世による説得

レオ1世とアッティラの会見
レオ1世とアッティラの会見

カタラウヌムの戦いの翌年の452年、アッティラ大王はイタリアに侵攻しますが、ローマ教皇レオ1世による説得で、ローマ侵攻を断念しました。

アッティラの最期とフン帝国の崩壊

その後、アッティラ大王は、急死し、強力な統率者を失ったフン帝国は内部分裂を起こし、急速に崩壊していきます。

西ローマ帝国の滅亡へ

フン人の脅威は去ったものの、西ローマ帝国の衰退は止まりませんでした。

やがて476年、ゲルマン人傭兵隊長オドアケルによって、西ローマ帝国は滅亡することになるのです。

関連年表

帝政ローマの成立から西ローマ帝国の滅亡までの歴史は、次の通りです。

スクロールできます
年号出来事
前27年元首政(プリンキパトゥス)の開始
9年トイトブルクの森の戦い
64年ネロ帝のキリスト教徒迫害
96年五賢帝時代の始まり
117年ローマ帝国、最大領土になる
212年アントニヌス勅令
235年軍人皇帝時代の始まり
260年エデッサの戦い
284年専制君主政(ドミナートゥス)の開始
293年テトラルキア(四分統治制)の始まり
303年ディオクレティアヌス帝のキリスト教徒迫害
313年ミラノ勅令
325年ニケーア公会議
330年コンスタンティノープルへ遷都
375年ゲルマン民族の大移動
392年キリスト教の国教化
395年ローマ帝国の分裂
410年西ゴート人によるローマ略奪
418年西ゴート王国の建国
429年ヴァンダル王国の建国
431年エフェソス公会議
451年カタラウヌムの戦い
451年カルケドン公会議
455年ヴァンダル人によるローマ略奪
476年西ローマ帝国の滅亡
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