強引に(512)、伽耶四県割譲
百済は、その見返りとして
しかし、その後、大伴金村は、割譲の際の収賄を非難されて失脚しました。
朝鮮半島の拠点
古代日本(ヤマト政権)は、朝鮮半島南部の伽耶地域に強い関心を持っていました。
この地は、鉄資源が豊富であり、また朝鮮半島や大陸との交易の中継地点としても重要でした。
そのため、ヤマト政権はこの地域に対し、軍事的・政治的影響力を持とうとしていたのです。
伽耶と任那
伽耶は、古代朝鮮半島南部に存在した小国家群の総称で、ヤマト政権と親密な関係にありました。
その中でも、日本と特に関係が深かった部分を任那と呼びます。
ヤマト政権は、任那を通じて朝鮮半島や中国大陸と外交・交易を行っていました。
割譲される四県
512年、百済の要請により、ヤマト政権は任那のうちの「四県」を百済に割譲しました。
これを「伽耶四県の割譲(任那四県の割譲)」といいます。
この事件は、日本が朝鮮半島に持っていた影響力の一部を失うことを意味しており、ヤマト政権内部でも大きな議論と批判を呼びました。
見返りは五経博士
ヤマト政権は、四県を割譲する見返りとして、百済から五経博士を受け入れました。
五経博士とは、儒教の「五経」に通じた学者で、儒教の思想を日本に伝える上での重要人物たちでした。
彼らにより、日本の古代国家形成において、政治制度や文化面に大きな影響がもたらされました。
失脚する大伴金村
この割譲を主導したのが、有力な豪族であった大伴金村です。
しかし、この割譲は「国益を損なった」として批判され、百済から賄賂を受け取っていたのではないかとも疑われました。
その一方で、527年に

しかし、この勝利も外交的失策に対する評価を覆すには至らず、立場は次第に悪化していきました。
やがて欽明天皇の治世が始まった540年代頃、四県割譲の責任を問われる形で失脚するに至りました。
大伴氏の没落後は、蘇我氏や物部氏が台頭することになります。