語呂合わせ
百済から、仏教が御参拝(538)(戊午説)
語呂合わせ
午後に(552)、仏教が伝来(壬申説)
覚え方
552年の仏教の伝来(壬申説)は、752年の大仏開眼供養の「200年前」である。
欽明天皇の時代、百済の聖明王から日本に仏教が伝来しました。
これが公的な仏教伝来(仏教公伝)です。
目次
百済の聖明王
朝鮮半島南部の国々
6世紀、日本と親しい関係にあった朝鮮半島南西部の国・百済。
その国王である聖明王は、仏教という貴重な文化的な贈り物を日本に伝えることで、より強固な同盟関係を築こうとしました。
仏教伝来はいつ?
公的な仏教伝来(仏教公伝)の年には、2つの説があります。
『上宮聖徳法王帝説』は538年、『日本書紀』は552年と記述しています。
現在は考古学的発見なども含めて538年説が有力です。
戊午説(538年説)
『上宮聖徳法王帝説』には、欽明天皇の戊午の年(538年)に百済の聖明王から、仏教が伝来したことが記されています。
上宮聖徳法王帝説は、聖徳太子の伝記です。
壬申説(552年説)
『日本書紀』では、仏教伝来は壬申の年(552年)としています。
なお、ちょうど200年後に大仏開眼供養が行われています。
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仏教私伝 ― 私的な仏教伝来
実は、公式の仏教伝来(仏教公伝)の前に、すでに日本には私的なルートで仏教が入ってきていました。
これを仏教私伝と呼びます。
司馬達等という渡来人が、私的に仏教を信仰していたとされており、『扶桑略記』にその記録が残されています。
神祇信仰
仏教が伝来する前の日本では、神祇信仰が中心でした。
これは、自然の神々や祖先の霊を祀る、日本古来の宗教観です。
後の神道の原型となるもので、山や川、木などの自然物に神が宿るという考え方が基本でした。
崇仏論争 ― 蘇我稲目と物部尾輿の対立
仏教が伝来すると、崇仏派の蘇我稲目と排仏派の物部尾輿が対立するようになりました。
この仏教を受け入れるか否かをめぐる論争を崇仏論争といいます。
崇仏派は仏教を受け入れようとした勢力、排仏派は仏教に反対した勢力のことです。
崇仏派の蘇我稲目
蘇我稲目は、仏教を受け入れに賛成しました。
蘇我氏は、渡来人との関係が深く、大陸の先進文化を取り入れることで政治的地位を高めようとしたからです。
排仏派の物部尾輿
物部尾輿は、仏教の受け入れに反対しました。
物部氏は、神祇信仰(神道)を重視しており、外来の仏教が入ることで、日本古来の神々が怒り、災いをもたらすと考えていたからです。
対立の激化
崇仏論争は、単なる宗教論争にとどまらず、政治的な権力争いの側面も持っていました。
蘇我氏は新しい文化を取り入れることで権力拡大を図り、物部氏は従来の秩序を維持しようとしたのです。
この対立は、それぞれの子の代(蘇我馬子と物部守屋)で決着がつくことになります。
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