前561年 ペイシストラトスの僭主政治

ペイシストラトス
アテネの僭主ペイシストラトス
語呂合わせ

公務1(前561)人で行う、ペイシストラトスの僭主政治

覚え方

『ドラムをソロでペイしてクレカ』(アテネ民主政の発展の順番)

ドラ = ドラコンの立法(前621年)

ソロ = ソロンの改革(前594年)

ペイ = ペイシストラトスの僭主政治(前561年)

クレ = クレイステネスの改革(前508年)

アテネのペイシストラトスは、平民の支持を受け、クーデタを起こして政権を奪い、僭主せんしゅ政治を行いました。

この記事では、ペイシストラトスの僭主政治について整理し、高校世界史で問われやすいポイントをわかりやすく解説します。

目次

ソロンの改革の課題

アテネでは、ソロンの改革により財産政治による参政権の拡大や債務奴隷の禁止により、貴族と平民の対立に一定の成果が出ました。しかし、下層平民の不満は完全には解消されませんでした。

こうした不満がくすぶる中、山地の下層平民(山地党)を中心とする民衆の支持を受けて登場したのが、ペイシストラトスです。

僭主ペイシストラトス

ペイシストラトスは、貴族による政治を批判し、山地党(貧農層)を支持基盤として人気を集め、前561年、軍事クーデターによって僭主として権力を握りました。

その後、一時的に追放されるなど政権は不安定でしたが、最終的には復帰してアテネの実権を掌握しました。

注目すべきは、彼が武力による恐怖政治ではなく、民衆の支持と経済政策によって安定した統治を行った点です。その支配は、平民に恩恵を与えつつ、貴族の勢力を抑えるという巧みなバランスの上に成り立っていました。

僭主とは何か?「暴君」とは限らない!

僭主とは、非合法に政権を握った支配者のことをいいます。

英語ではtyrant(タイラント)、日本語では「暴君ぼうくん」と訳されることもありますが、古代ギリシアにおいては必ずしも悪政を敷いた支配者ばかりではありませんでした。実際、アテネの僭主ペイシストラトスは、平民の支持を得て、ある意味「人気のある独裁者」でもありました。

亡命貴族の土地を再配分

ペイシストラトスは、政権に反対する貴族を追放し、彼らの土地を没収して貧しい平民に分配しました。これは、平民の支持を得ると同時に、貴族の力を削ぐ策でもありました。

ラウレイオン銀山の開発

ペイシストラトスは、アテネ南部のラウレイオン銀山を開発し、鉱山収入を活用してアテネの街を再開発しました。

ラウレイオン銀山は、のちのサラミスの海戦の時にも役に立ちます。

息子ヒッピアスの時代へ ― 僭主政治の終焉

ヒッピアス
ヒッピアス

ペイシストラトスの死後、息子のヒッピアスが政権を継ぎました。しかし、弟ヒッパルコスの暗殺事件をきっかけに、ヒッピアスは次第に疑心暗鬼になり、暴君化して圧政的な政治を行うようになります。

その結果、民衆の支持を失い、前510年にアテネを追放されました。

このあと、クレイステネスが登場し、アテネで民主政の改革を進めていきます。

追放後のヒッピアス

一方、追放されたヒッピアスは、アケメネス朝ペルシアへ亡命し、アテネへの復帰を企てます。のちのマラトンの戦い(前490年)ではペルシア軍の案内役を務めますが、ペルシアの敗北によって望みは絶たれ、失意のうちに生涯を終えたと伝えられています。

理解を深めるQ&A

よくある質問を通して、学びをさらに深めよう!

ヒッピアスはなぜ暴君になったのですか?

弟の暗殺事件がきっかけです。

この事件を機に、恐怖と猜疑心から市民を弾圧するようになり、穏健な政治家から「暴君」へと変わっていきました。

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