658年 蝦夷・粛慎の征討

阿倍比羅夫
ヒグマを生け捕る阿倍比羅夫
語呂合わせ

無言でや(658)り抜く、阿倍比羅夫あべのひらふ蝦夷えみし粛慎みしはせの征討

斉明さいめい天皇は、阿倍比羅夫あべのひらふを東北に派遣し、蝦夷えみし粛慎みしはせの征討を行いました。

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東北経営の始まり

古代日本において、東北地方は「蝦夷えみしの地」と呼ばれ、大和朝廷の直接的な支配が及ばない辺境の地でした。

しかし、7世紀に入ると、大和朝廷は積極的な東北経営を展開し始めます。

東北経営とは、東北地方に軍人を派遣し支配地を広げていくこと(蝦夷征討)を指します。

渟足柵の設置(647年)

まず、孝徳こうとく天皇の時代、647年に東北経営の軍事的な拠点として、渟足柵ぬたりのさくが設置されました。

この渟足柵は現在の新潟県新潟市付近に建設されたとされます。

磐舟柵の設置(648年)

続いて648年に設置されたのが磐舟柵いわふねのさくです。

現在の新潟県村上市付近に建設されたとされます。

磐舟柵は渟足柵よりもさらに北方に位置し、蝦夷地域への最前線基地として機能しました。

柵戸

柵戸さくことは、朝廷が東北地方の柵(軍事拠点)周辺に移住させた農民のことです。

この制度は東北経営政策の重要な柱の一つでした。

俘囚

俘囚ふしゅうとは、朝廷に帰服した蝦夷えみしのことを指します。

俘囚は完全に朝廷の支配下に入りながらも、独自の文化や生活様式を一定程度維持していました。

斉明天皇の重祚

皇極天皇(斉明天皇)
斉明天皇

658年の蝦夷えみし粛慎みしはせ征討が行われたのは、斉明さいめい天皇の治世下でした。

斉明天皇は、皇極こうぎょく天皇として一度即位した後、いったん退位して孝徳こうとく天皇に譲位しましたが、孝徳天皇の死後に再び即位しました。

この「一度退位した天皇が再び即位すること」を重祚ちょうそと呼びます。

重祚は日本史上でも珍しい現象で、斉明天皇皇極天皇として先に即位)と称徳しょうとく天皇孝謙こうけん天皇として先に即位)の2例しかありません。

当時の政治情勢

7世紀中頃の日本は、大化の改新(645年)を経て、中央集権国家への転換を図っている時期でした。

朝廷は国内統一を進める一方で、朝鮮半島情勢の緊迫化や、東北地方への関心も高まっていました。

阿倍比羅夫

東北経営の中核を担ったのが、有力な武将 阿倍比羅夫あべのひらふです。

阿倍氏は古代の有力豪族の一つで、特に北陸方面での功績で知られていました。

蝦夷・粛慎の征討(658年)

658年、阿倍比羅夫あべのひらふは、斉明さいめい天皇の命を受けて北方遠征を敢行しました。

彼は180隻にも及ぶ船団を率い、日本海を北上し、秋田・津軽地方へと進出します。

この遠征によって、朝廷は北日本との交流・支配の足がかりを築きました。

蝦夷の征討

当時、蝦夷えみしと呼ばれていたのは、東北地方に居住し、朝廷の支配に服さなかった人々です。

阿倍比羅夫は、水軍を率いて日本海側から秋田地方へ到達し、軍事行動を展開。

この地の蝦夷を服属させ、さらに北方へ進出しました。

粛慎の征討

さらに北に進んだ阿倍比羅夫は、北方の異民族である粛慎みしはせと交戦します。

粛慎は、北海道や樺太にいたとされる民族です。

比羅夫は、これを打ち破り、多くの戦利品を持ち帰ったと『日本書紀』に記されています。

白村江の戦いによる打ち切り

阿倍比羅夫あべのひらふによる蝦夷えみし粛慎みしはせ征討は、白村江はくすきのえ(はくそんこう)の戦いの準備のため打ち切られることになりました。

朝鮮半島では百済新羅連合軍によって滅ぼされ、百済復興の要請が日本に届いていました。

斉明天皇は百済支援を決定し、阿倍比羅夫も朝鮮半島派遣軍の主力として参加することになりました。

この決定により、順調に進んでいた東北経営は一時中断されることになります。

征討の意義

阿倍比羅夫あべのひらふの遠征によって、日本の朝廷は東北地方への影響を強めました。

しかし、蝦夷えみし粛慎みしはせの完全な支配には至らず、その後も東北地方では独立勢力が存続しました。

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