743年 墾田永年私財法

墾田永年私財法
墾田永年私財法
語呂合わせ

無しさ(743)期限は、墾田永年私財法

墾田永年私財法こんでんえいねんしざいほう天平てんぴょう十五年のきゃく)は、開墾した土地の永久私有を認める制度です。

聖武天皇の時代にたちばなの諸兄もろえ政権のもとで発布されました。

目次

三世一身法の限界

当時の日本では、三世一身法さんぜいっしんほうにより、新しく開墾した土地は三世代(孫の代)まで所有することが認められていました。

しかし、開墾には多くの労力が必要であるにも関わらず、最終的には国に返還しなければならないため、農民や貴族は積極的に開墾しませんでした。

疫病の大流行

また、当時の日本は、疫病の大流行(735-737年)に見舞われており、人口減少と農業生産力の低下を招いていました。

この状況下で、政府は税収の確保と農業生産の回復を急務としていたのです。

藤原四兄弟の死

この疫病で、政治の実権を握っていた藤原四兄弟(藤原武智麻呂、藤原房前、藤原宇合、藤原麻呂)が737年に相次いて、病死したことで政治的な空白が起こります。

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藤原四兄弟特徴
藤原武智麻呂むちまろ長男、南家なんけの祖、長屋王の変を主導
藤原房前ふささき次男、北家ほっけの祖、後の摂関政治につながる
藤原宇合うまかい三男、式家しきけの祖、遣唐使に参加
藤原麻呂まろ四男、京家きょうけの祖、政治的影響は控えめ

橘諸兄の台頭

橘諸兄
橘諸兄

そして、藤原四兄弟に変わり、皇族出身のたちばなの諸兄もろえが政治の実権を握り、新たな土地政策が実行されることになります。

墾田永年私財法 ― 開墾地の私有が可能に

聖武天皇の治世下において、たちばなの諸兄もろえは、新たな土地政策として、墾田永年私財法と発布します。

墾田永年私財法(天平十五年の格)は、新たに開墾した土地の永久私有を認める制度です。

これまでの三世一身法では三世代限定だった私有権が、墾田永年私財法によって永続的なものとなったのです。

ただし、私有が認められるのは「新たに開墾した土地」に限定され、既存の口分田は対象外でした。

公地公民制からの転換

墾田永年私財法は、大化の改新以来続いてきた公地公民制の原則を変えるものでした。

公地公民制とは、国が土地と人民を所有するという制度です。

この法律によって、農業生産力の向上と新田開発が促進された一方、土地の私有化が進むことで、従来の公地公民制の理念が徐々に形骸化していくことになりました。

初期荘園の拡大

墾田永年私財法は、後の荘園しょうえん制度の基礎となりました。

荘園とは、有力者の私有地のことです。

貴族や寺院が競って開墾事業に乗り出し、私有地を拡大していきました。

墾田永年私財法によって開墾された私有地のことを初期荘園といいます。

荘園(私有地)が広がることにより、国の管理が及ばなくなって行くことになります。

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