しなく(前479)てはならない、プラタイアの戦い
プラタイアの戦い(プラタイアイの戦い)は、第4回ペルシア戦争において、スパルタを中心とするギリシア連合軍がアケメネス朝ペルシアの将軍マルドニオスをプラタイアで打ち破った戦いです。
この記事では、第4回ペルシア戦争(プラタイアの戦い)について整理し、高校世界史で問われやすいポイントをわかりやすく解説します。
サラミスの雪辱を狙うペルシア陸軍
アケメネス朝ペルシアの王クセルクセス1世は、サラミスの海戦でアテネに敗北すると補給難や冬の到来を理由に、本隊を率いてペルシア本国へ撤退しました。

しかし、ギリシア征服の望みを完全には捨てず、信頼する将軍であり親族でもあるマルドニオスに約4万の陸軍を託してギリシア本土に残しました。
クセルクセス1世は、マルドニオスに「陸での勝利によってサラミスの雪辱を果たせ」と命じたのです。
アテネに迫るペルシア軍
ギリシア北方のテッサリアで越冬したマルドニオスは、春を迎えると南下しアテネへ迫ります。アテネは単独での戦闘は困難と判断し、スパルタへ援軍を要請します。
スパルタのパウサニアスの出陣

スパルタでは、テルモピレーの戦いで王レオニダスが戦死した後、その甥であるパウサニアスが実権を握っていました。
スパルタはアテネの要請に応じ、重装歩兵を中心とした軍を派遣します。この戦いは、スパルタにとってもテルモピレーの雪辱戦でした。
こうして、ギリシア連合軍(主にスパルタとアテネ)とペルシア軍との最終決戦――プラタイアの戦いが幕を開けるのです。
第4回ペルシア戦争 ― プラタイアの戦い
前479年、ペルシア軍のマルドニオスは、ギリシア連合軍とプラタイア平原で対峙しました。
ペルシア軍は騎兵と弓兵を主体とし、広い平原を活かした機動戦を得意としていました。一方、ギリシア軍は、重装歩兵による密集陣形で防御を固め、接近戦に持ち込もうとします。
プラタイア平原で決戦

戦いの序盤、ペルシア軍の弓矢攻撃によってギリシア軍は苦戦しましたが、スパルタの将軍パウサニアスが軍を立て直し、重装歩兵を中心に反撃に転じました。
やがて白兵戦となると、盾と槍を駆使したスパルタ兵の強さが際立ち、ペルシア軍は次第に崩れていきます。指揮官マルドニオスも戦死し、ペルシア軍は大混乱の末に総崩れとなりました。
ペルシアをギリシアから完全に撃退
プラタイアの戦いの勝利によって、ギリシアはついにペルシア軍を本土から完全に撃退することに成功しました。
ミカレ岬の戦い
さらに、ミカレ岬の戦いでアテネを中心としたギリシア艦隊がペルシア軍を撃退します。これにより、エーゲ海からもペルシアを撤退させます。
「プラタイア」と「ミカレ岬」の二重の勝利によって、ペルシアのギリシア侵攻は完全に終わりを迎えました。
ペルシア戦争、その後
ペルシア戦争の後、アテネ・スパルタ・アケメネス朝ペルシアでは、それぞれ新たな動きが見られました。
アテネ ― ペルシア再侵攻へ備える
アテネは、ペルシアの再侵攻に備え、エーゲ海諸都市とともにデロス同盟を結成します。同盟の中心となったアテネは、次第に軍事・経済の主導権を握り、ギリシア世界で勢力を拡大していくことになります。

スパルタ ― 英雄パウサニアスの失脚

スパルタのパウサニアスは、プラタイアの戦いの勝利後、アケメネス朝ペルシアとの内通疑惑をかけられます。
スパルタに召還された彼は追手から逃れようとアテナ神殿に立てこもりますが、神殿を封鎖され、餓死したと伝えられています。かつての英雄は、悲劇的な最期を迎えたのです。
アケメネス朝ペルシア ― クセルクセス1世の死

クセルクセス1世は、前465年に宮廷内の争いが原因で暗殺されます。その後、息子のアルタクセルクセス1世が第5代の王になりました。
