792年 健児の制

桓武天皇
桓武天皇
語呂合わせ

泣くに(792)泣かれぬ、健児こんでいの制

健児こんでいの制は、桓武かんむ天皇によって導入された郡司ぐんじの子弟を兵士として採用する軍事制度です。

これまでの徴兵による軍団制に代わり、少数精鋭の部隊である健児こんでいを編成しました。

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大宝律令と軍団制の成立

701年に制定された大宝律令では、唐の制度を参考にした兵制が整備されました。

その中で定められた軍団制は、各国に軍団を置き、農民を徴発して兵士とする制度です。

軍団制の課題

軍団制は、兵力の量を確保する点では有効でしたが、徴兵された農民兵は農作業との兼務で兵力の質(士気や練度)に課題がありました。

さらに、兵士を長期間訓練や遠征に出すことは、生産力の低下にもつながりました。

唐の弱体化

8世紀半ば、安史あんしの乱(755~763年)という大規模な内乱が発生し、唐王朝は大きく弱体化します。

これにより、日本にとって外敵侵入の脅威が減少しました。

こうした背景から、従来のように大量の兵を抱える必要性が低下し、質を重視した兵制への転換が求められるようになります。

健児の制の導入

桓武かんむ天皇は、兵力の質を高めるため、郡司ぐんじの子弟を少数精鋭部隊として採用する健児こんでいの制を導入しました。

郡司地方豪族であり、その子弟は体格や武芸、忠誠心の面で優れていると期待されたためです。

九州・東北を除き、軍団制を廃止

健児こんでいの制は全国で一律に実施されたわけではありません。

九州は対外戦での最前線、東北は蝦夷との戦いが続く地域だったため、兵力削減が困難で、従来通り軍団制が維持されました。

一方、それ以外の地域では軍団制が廃止され、健児の制が実施されました。

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