やれ行(801)け、
この記事では、坂上田村麻呂の蝦夷征討について整理し、高校日本史で問われやすいポイントをわかりやすく解説します。
朝廷と蝦夷の対立
ヤマト政権と長い間、対立関係が続いていました。
阿倍比羅夫の派遣(658年)
これが、史書に残る最初の本格的な蝦夷征討とされています。

出羽柵の設置(708年)
708年には
出羽柵は現在の山形県の最上川河口付近に築かれ、日本海側からの蝦夷支配の拠点となりました。
多賀城の設置(724年)
さらに奈良時代の724年には、
朝廷は、東北地方を日本海側(出羽柵)と太平洋側(多賀城)から挟み撃ちする形で支配体制を構築しようとしていました。
伊治呰麻呂の乱(780年)
しかし、朝廷の支配が進む中で、蝦夷側の反発も激しくなりました。
この反乱は、朝廷に蝦夷統治の困難さを改めて認識させる契機となりました。
桓武天皇の蝦夷征討事業

紀古佐美が阿弖流爲に大敗(789年)
789年、
坂上田村麻呂の蝦夷征討(801年)
その後、
彼は797年に
征夷大将軍という称号は、後に鎌倉幕府や室町幕府、江戸幕府の将軍の称号としても使われることになる重要な官職です。
坂上田村麻呂は、軍事的な強さに加え、現地との交渉力にも優れた人物であり、朝廷と蝦夷の対立に終止符を打つことに成功します。
阿弖流爲の降伏
田村麻呂は二人を平安京へ連行し、助命を願ったと伝えられますが、最終的に処刑されてしまいます。
この処置は、蝦夷の再蜂起を恐れた朝廷の判断だったと考えられています。
胆沢城の築城(802年)
征討ののち、
これに伴い、
さらに翌年の803年には
その後の東北経営
桓武天皇によって進められた蝦夷征討事業(東北経営)は、一時中断されるものの、次の嵯峨天皇の時代には再開されることになります。
徳政総論による中断(805年)
桓武天皇によって進められてきた蝦夷征討事業は、藤原緒嗣の「国家財政を悪化させ、民衆を疲弊させる」という意見を入れて、一時中断されました。

文室綿麻呂の派遣(811年)

その後、
坂上田村麻呂の後を継いだのは
811年に征夷将軍となった文室綿麻呂は、
元慶の乱(878年)
しかし、朝廷の支配が安定したわけではありませんでした。
878年には
この乱は出羽国で発生し、朝廷軍は苦戦を強いられましたが、最終的には鎮圧されました。
前九年の役へと続く
その後も東北地方では紛争が続き、11世紀には
これは安倍氏を中心とした東北の豪族と朝廷との間で行われた戦いで、

このように、坂上田村麻呂の征討事業は一定の成果を上げたものの、東北地方の完全な平定には長い時間が必要でした。
関連年表
平安時代、前期(794〜901年)の歴史は、次の通りです。
| 年号 | 出来事 |
|---|---|
| 794年 | 平安京へ遷都 |
| 797年 | 坂上田村麻呂、征夷大将軍になる |
| 801年 | 坂上田村麻呂の蝦夷征討 |
| 802年 | 胆沢城の築城 |
| 805年 | 最澄、天台宗を伝える |
| 805年 | 徳政相論 |
| 806年 | 空海、真言宗を伝える |
| 807年 | 伊予親王の変 |
| 810年 | 薬子の変 |
| 811年 | 文室綿麻呂の派遣 |
| 814年 | 凌雲集の編纂 |
| 820年 | 弘仁格式の編纂 |
| 828年 | 綜芸種智院の設立 |
| 833年 | 令義解の撰進 |
| 842年 | 承和の変 |
| 858年 | 藤原良房、事実上の摂政就任 |
| 866年 | 応天門の変 |
| 875年 | 黄巣の乱 |
| 878年 | 元慶の乱 |
| 884年 | 藤原基経、事実上の関白就任 |
| 887年 | 藤原基経、正式な関白就任 |
| 888年 | 阿衡の紛議 |
| 894年 | 遣唐使の廃止 |
| 897年 | 滝口の武者(滝口の武士)の設置 |
| 901年 | 昌泰の変 |
