語呂合わせ
やれ行(801)け、坂上田村麻呂の蝦夷征討
坂上田村麻呂は、桓武天皇から征夷大将軍に任命され、蝦夷の族長である阿弖流爲を降伏させました。
目次
朝廷と蝦夷の対立
蝦夷とは、古代から中世にかけて東北地方に住んでいた人々の総称です。
ヤマト政権と長い間、対立関係が続いていました。
阿倍比羅夫の派遣(658年)
斉明天皇の時代(655-661年)、658年に阿倍比羅夫が蝦夷・粛慎の征討に派遣されました。
これが、史書に残る最初の本格的な蝦夷征討とされています。
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出羽柵の設置(708年)
708年には出羽柵が設置され、後にこれが北に移され秋田城(733年)となりました。
出羽柵は現在の山形県の最上川河口付近に築かれ、日本海側からの蝦夷支配の拠点となりました。
多賀城の設置(724年)
さらに奈良時代の724年には、多賀城が築城され、太平洋側からの蝦夷支配の拠点となりました。
朝廷は、東北地方を日本海側(出羽柵)と太平洋側(多賀城)から挟み撃ちする形で支配体制を構築しようとしていました。
伊治呰麻呂の乱(780年)
しかし、朝廷の支配が進む中で、蝦夷側の反発も激しくなりました。
光仁天皇の時代(770-781年)には、服属していた伊治呰麻呂が反乱を起こし、多賀城を占拠しました。
光仁天皇は、桓武天皇の父親で、天智天皇の孫です。
この反乱は、朝廷に蝦夷統治の困難さを改めて認識させる契機となりました。
桓武天皇の蝦夷征討事業
桓武天皇
桓武天皇が即位すると、蝦夷征討はより積極的に推進されるようになりました。
紀古佐美が阿弖流爲に大敗(789年)
789年、桓武天皇は、紀古佐美を征東大使として出兵しますが、蝦夷の指導者 阿弖流爲の巧みな戦術によって大敗を喫します。
坂上田村麻呂の蝦夷征討(801年)
その後、桓武天皇はより確実な征討を目指し、坂上田村麻呂を起用します。
彼は797年に征夷大将軍に任命され、801年に大軍を率いて蝦夷の地へ進軍しました。
征夷大将軍という称号は、後に鎌倉幕府や室町幕府、江戸幕府の将軍の称号としても使われることになる重要な官職です。
坂上田村麻呂は、軍事的な強さに加え、現地との交渉力にも優れた人物であり、朝廷と蝦夷の対立に終止符を打つことに成功します。
阿弖流爲の降伏
坂上田村麻呂の征討により、蝦夷の指導者阿弖流爲は降伏しました。
田村麻呂は二人を平安京へ連行し、助命を願ったと伝えられますが、最終的に処刑されてしまいます。
この処置は、蝦夷の再蜂起を恐れた朝廷の判断だったと考えられています。
胆沢城の築城(802年)
征討ののち、坂上田村麻呂は、802年に胆沢城(現在の岩手県奥州市)を築きました。
これに伴い、蝦夷支配の拠点である鎮守府を多賀城から胆沢城へ移しました。
さらに翌年の803年には志波城を築き北方の拠点としました。
その後の東北経営
桓武天皇によって進められた蝦夷征討事業(東北経営)は、一時中断されるものの、次の嵯峨天皇の時代には再開されることになります。
徳政総論による中断(805年)
桓武天皇によって進められてきた蝦夷征討事業は、藤原緒嗣の「国家財政を悪化させ、民衆を疲弊させる」という意見を入れて、一時中断されました。
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文室綿麻呂の派遣(811年)
文室綿麻呂
その後、嵯峨天皇の時代になると、蝦夷征討事業が再開されることになります。
坂上田村麻呂の後を継いだのは文室綿麻呂です。
811年に征夷将軍となった文室綿麻呂は、徳丹城を築城するなど、蝦夷地支配の拡大を続けました。
元慶の乱(878年)
しかし、朝廷の支配が安定したわけではありませんでした。
878年には元慶の乱が発生し、朝廷に服属した蝦夷による大規模な反乱が起こりました。
この乱は出羽国で発生し、朝廷軍は苦戦を強いられましたが、最終的には鎮圧されました。
前九年の役へと続く
その後も東北地方では紛争が続き、11世紀には前九年の役が発生します。
これは安倍氏を中心とした東北の豪族と朝廷との間で行われた戦いで、源頼義・義家父子が活躍したことで知られています。
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このように、坂上田村麻呂の征討事業は一定の成果を上げたものの、東北地方の完全な平定には長い時間が必要でした。