722年 百万町歩の開墾計画

百万町歩の開墾計画
百万町歩の開墾計画
語呂合わせ

何使(722)って開墾しよう、百万ひゃくまん町歩ちょうぶ開墾計画かいこんけいかく

百万ひゃくまん町歩ちょうぶ開墾計画かいこんけいかくは、長屋王ながやおうによって進められた大規模な農地開墾計画のことです。

口分田くぶんでんの不足を補うために計画されました。

口分田とは、朝廷が支給する田んぼのことです。

目次

班田収授法とは何だったのか

百万ひゃくまん町歩ちょうぶ開墾計画かいこんけいかくを理解するには、まず当時の土地制度である班田収授法はんでんしゅうじゅほうについて知る必要があります。

改新の詔で打ち出される

班田収授法はんでんしゅうじゅほうは、大化たいか改新かいしん(645年)の改新かいしんみことのりで打ち出された公地公民こうちこうみんの具体的な実施方法です。

国家がすべての土地人民を直接支配し、戸籍に基づいて人々に口分田くぶんでんを支給する制度でした。

大宝律令により法制化

大宝律令たいほうりつりょう(701年)によって法制化され、庚午年籍こうごねんじゃく(690年)を基準として実施されました。

この制度により、律令国家は農民から調の税を徴収し、国家財政を支えていました。

口分田の不足が深刻化

しかし、8世紀初頭になると、人口増加に伴い、支給すべき口分田くぶんでんが不足し始めます。

戸籍に登録された人々すべてに口分田を支給するだけの耕地が足りなくなってしまいました。

百万町歩の開墾計画

722年、これらの問題を解決するために打ち出されたのが、百万ひゃくまん町歩ちょうぶ開墾計画かいこんけいかくした。

百万町歩の開墾計画とは、大規模な農地開墾計画のことです。

「町歩」とは古代日本の面積単位で、1町歩は約1ヘクタールに相当します。

つまり、この計画は約100万ヘクタールという膨大な土地を新たに開墾しようとする壮大な事業でした。

計画の具体的な内容は、全国各地で新田開発を行い、農業生産力を飛躍的に向上させることでした。

長屋王 — 百万町歩の開墾計画の推進者

長屋王
長屋王

百万ひゃくまん町歩ちょうぶ開墾計画かいこんけいかくの中心人物は、皇族出身の長屋王ながやおうです。

長屋王は、天武天皇の皇子である高市皇子の子です。

長屋王と藤原四兄弟

長屋王ながやおうは、藤原氏の台頭に対抗する立場にありました。

特に藤原不比等ふじわらのふひとの死後、その息子たちである藤原四兄弟(武智麻呂、房前、宇合、麻呂)との政治的対立が激しくなっていました。

百万ひゃくまん町歩ちょうぶ開墾計画かいこんけいかくは、長屋王が主導する政治改革の一環として位置づけられます。

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藤原四兄弟特徴
藤原武智麻呂むちまろ長男、南家なんけの祖、長屋王の変を主導
藤原房前ふささき次男、北家ほっけの祖、後の摂関政治につながる
藤原宇合うまかい三男、式家しきけの祖、遣唐使に参加
藤原麻呂まろ四男、京家きょうけの祖、政治的影響は控えめ

百万町歩は達成できず

百万ひゃくまん町歩ちょうぶ開墾計画かいこんけいかくは、結局のところ大きな成果を上げることができませんでした。

技術的限界、資金不足、労働力の確保困難などの要因により、計画は大幅に縮小されることになりました。

百万町歩の開墾計画の失敗を受けて、律令国家は新たな開墾政策を模索する必要に迫られることになります。

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