困るや(前508)つは陶片追放、クレイステネスの改革
『ドラムをソロでペイしてクレカ』(アテネ民主政の発展の順番)
ドラ = ドラコンの立法(前621年)
ソロ = ソロンの改革(前594年)
ペイ = ペイシストラトスの僭主政治(前561年)
クレ = クレイステネスの改革(前508年)
クレイステネスは、アテネの民主政の改革として、貴族の影響力を弱めるための部族制の改編と、僭主の出現を防ぐための陶片追放の導入を行いました。
この記事では、クレイステネスの改革について整理し、高校世界史で問われやすいポイントをわかりやすく解説します。
暴君ヒッピアスの追放

アテネでは、ペイシストラトスが僭主として統治し、下層平民への土地分配など民衆に配慮した政策を実施していました。

しかし、跡を継いだ息子のヒッピアスが次第に暴君化していきます。その圧政に耐えかねたアテネ市民は、前510年、スパルタの援助を得て、ヒッピアスをアテネから追放しました。
その後、クレイステネスという貴族出身の政治家が登場し、アテネの民主政の改革を進めていきます。
クレイステネスの改革
ペイシストラトスの僭主政治は、民衆に優しい側面を持っていましたが、「民衆による政治」ではありませんでした。また、ヒッピアスのような暴君の出現を防ぐ制度もありませんでした。
クレイステネスは、この点を踏まえて改革を進めていきます。
彼の改革によって、アテネは「民衆による、民衆のための政治」へと大きく舵を切ることになるのです。
部族制の改編 ― 貴族政の防止
クレイステネスは、まず、貴族の影響力を弱めるため部族制の改編に着手しました。
10部族制の導入
それまでのアテネでは、「血縁関係」に基づく4部族制が採用されており、貴族の権力の温床となっていました。これを廃止し、「居住区(デーモス)」に基づく10部族制を新たに導入します。
五百人評議会の設置
さらにクレイステネスは行政を担当する五百人評議会を設けました。この評議会は、10部族から50人ずつ選出された合計500人の評議員で構成され、アテネの政治運営を担いました。
部族制の改編により、貴族中心の政治から、地域に基づく平等な政治参加へと大きく前進しました。これにより、貴族政の再来を防止する仕組みが整えられたのです。
陶片追放 ― 僭主政の防止

クレイステネスはさらに、僭主(独裁者)の出現を防ぐ制度として、陶片追放(オストラキスモス、オストラシズム)を導入しました。
アテネ市民は、陶器のかけら(オストラコン)に独裁者になりそうな人物の名前を刻んで投票します。6000票を集めた者は10年間アテネから追放されました。
この制度は、人気や権力が集中しすぎる人物を未然に排除するための安全装置だったのです。
アテネの民主政の土台が築かれる
クレイステネスの改革は、アテネにおける民主政の原型を築いた重要な転換点でした。
ただし、当時はまだ無産市民(財産を持たない人々)の政治参加は限定的でした。
それが改善されていくのは、ペルシア戦争での活躍を通じて、彼らが政治的発言権を獲得していくのを待たなければなりません。


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