死なば(前478)もろとも、デロス同盟
ペルシア戦争後、ギリシアはアケメネス朝ペルシアの再攻に備えて、アテネを中心とした軍事同盟を結成しました。これをデロス同盟といいます。
この記事では、デロス同盟について整理し、高校世界史で問われやすいポイントをわかりやすく解説します。
デロス同盟 ― アケメネス朝ペルシアへの備え
プラタイアの戦い(前479年)とミカレ岬の戦いでアケメネス朝ペルシアを撃退したあと、ギリシア側は「再びペルシアが攻めてくるかもしれない」という危機感を持ちました。

この危機感のもと、アテネを盟主として多くのポリスが集まり、海上軍事同盟であるデロス同盟を結成します。本部(共同金庫)が、エーゲ海のデロス島に置かれたため、この名が付きました。
同盟には、エーゲ海周辺の約200のポリスが加盟しましたが、アテネと対立していたスパルタなどは参加しませんでした。
同盟の仕組み
デロス同盟に加盟したポリスは、「艦隊と兵隊を出す」か「軍資金を出す」かのいずれかで協力する義務がありました。小さなポリスは艦隊を持てなかったため、代わりに軍資金を払いました。
アテネ帝国 ― 同盟から支配へ

ペリクレスの時代になると、アテネは同盟の主導権を握り、次第に他のポリスを支配下に置いていきます。もはや「同盟」とは名ばかりで、デロス同盟は実質的な「アテネ帝国」となりました。
金庫の移動
前454年、アテネは安全を理由に同盟の金庫をデロス島からアテネへ移動させます。これにより、同盟資金はアテネの思い通りに使える資金源となりました。
パルテノン神殿の建設
アテネはこの資金を流用し、ペルシア戦争で破壊されたアクロポリスの再建に着手します。その中心として建てられたのがパルテノン神殿です。守護神アテナを祀るこの神殿は、彫刻家フェイディアスによって建設され前431年に完成しました。
脱退への弾圧
やがて、同盟からの脱退を試みるポリスが現れると、アテネは軍を派遣して鎮圧しました。こうして「ペルシアへの備え」という当初の目的は失われ、デロス同盟はアテネの覇権維持の道具へと変わっていったのです。
ペロポネソス同盟の反発
アテネがデロス同盟を私物化し、同盟諸国を支配下に置いていったことに対し、ライバルのスパルタを中心とするペロポネソス同盟が強く反発しました。
こうして、海上覇権を握るアテネと、陸上覇権を誇るスパルタの対立が深まり、やがてペロポネソス戦争へとつながっていきます。

