960年 北宋の建国

趙匡胤
趙匡胤
語呂合わせ

苦労を(960)いとわぬ趙匡胤、北宋の建国

後周こうしゅうの軍人であった趙匡胤ちょうきょういんは、部下たちに推戴されて即位し、そう北宋ほくそう)を建国しました。

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後周の世宗の下で頭角を表す

五代十国ごだいじっこく時代、軍閥同士の争いが続く中で、後周の軍人であった趙匡胤は、その軍事的手腕をもって頭角を現します。

後周世宗せいそうのもとで軍を率い、華北の安定に尽力していました。

趙匡胤、推戴されて即位

しかし、後周の世宗が亡くなり、幼帝が即位すると、軍中でクーデターが勃発します。

部下たちは趙匡胤を「皇帝として推戴」し、彼はこれを受け入れて即位。

ここに北宋)が建国されます。

これは、武人の力による即位でしたが、以後は軍権を抑えて皇帝による安定した統治体制を築いていくことになります。

文治主義と節度使の解体

建国後、趙匡胤は各地に割拠していた節度使せつどしの力を削ぎ、中央集権体制を構築します。

これを支えたのが「文治ぶんち主義」です。

武人ではなく文官による統治を重視し、軍人の台頭を防ぎました。

節度使の権限を吸収し、指揮権を中央の禁軍きんぐんに集中させたのです。

禁軍とは、皇帝直属の軍のことです。

太宗による統一と北漢の滅亡

趙匡胤の死後、弟の趙匡義ちょうきょうぎ太宗たいそうとして即位。

彼は979年に十国最後の生き残り・北漢ほくかんを滅ぼし、中国の再統一を達成しました。

こうして宋王朝は名実ともに「天下の支配者」となったのです。

君主独裁体制の成立

北宋では、皇帝が行政・軍事・財政を掌握する君主独裁体制が整えられました。

軍事を担当する枢密院すうみついんが設置され、皇帝の統制のもとで政策が実行されました。

科挙の整備

北宋では、学問によって官吏を登用する科挙かきょ制度がさらに整備されます。

推薦ではなく、筆記試験によって公平に人材を登用することで、地方の有力豪族の影響力を抑え、中央集権体制を維持しました。

読書人階級

北宋の時代、儒学を中心に学問に励み、官僚となることを目指す読書人と呼ばれる知識人階層が成長します。

彼らは単なる「受験生」ではなく、政治・文化・思想面でも宋代社会を支えるエリート層でした。

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