993年 天台宗、山門派と寺門派に分裂

円珍
円珍
語呂合わせ

泣泣きゅうきゅうみ(993)ずから、天台宗てんだいしゅうが分裂

最澄さいちょうによって開かれた天台宗てんだいしゅうは、密教に対する考え方の違いで山門派寺門派に分裂しました。

目次

天台宗とは

天台宗てんだいしゅうは、法華経を根本経典とし、経典を学び修行によって悟りを開こうとする仏教の宗派です。

最澄さいちょうによって開かれました。

最澄の死後、円仁円珍といった弟子たちによって、密教の要素が導入されていきます。

円仁

円仁えんにんは、838年から847年まで遣唐使で唐に留学し、密教を本格的に学んで帰国しました。

838年の遣唐使が、最後の遣唐使でした。

彼は天台宗てんだいしゅうに密教的要素を大幅に取り入れ、「台密たいみつ」と呼ばれる天台密教を確立しました。

なお、円仁は唐での体験を、『入唐にっとう求法ぐほう巡礼じゅんれい行記こうき』に記しています。

円珍

円珍えんちんは、新羅商人の船で853年に唐に入り、円仁とは異なる系統の密教を学びます。

その後、858年に唐商人の船で帰国しました。

円珍の母は、空海の姪といわれています。

山門派と寺門派の対立

円珍えんちんは、法華経の教えより密教の教えを重視し、円仁えんにん法華経と密教を同等と捉える考え方とは異なりました。

その考え方の違いにより、のちに円仁系の山門さんもんと円珍系の寺門じもんの対立が生じ、円珍系は園城寺おんじょうじ三井寺みいでら)に拠点を移すことになります。

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