西の果(前248)て、パルティアの建国
イラン系遊牧民のパルニ族の族長アルサケスは、セレウコス朝シリアから独立し、アルサケス朝パルティア(パルティア、安息)を建国しました。
パルティアの成立 ― セレウコス朝シリアからの独立
アケメネス朝ペルシアがアレクサンドロス大王により滅亡させられ、さらにアレクサンドロス大王が病死すると、イランはセレウコス朝シリアの支配下に置かれました。

その後、セレウコス朝シリアの勢力が弱まると、各地で自立の動きが起こりました。
そんな中、カスピ海の南東で独立したのが、パルティア王国です。
安息
中国の歴史書『史記』大宛伝では、パルティアは「安息」と記述されています。
建国者のアルサケスの当て字といわれています。
都クテシフォン
ミトラダテス1世の時代には、セレウコス朝シリアの都セレウキアを占領し、ティグリス川の対岸に都クテシフォンを建設しました。
ローマとの争い
パルティア王国は、中東地域をめぐって度々、覇権争いが起こりました。
カルラエの戦い ― クラッススを敗死させる
前53年、ローマの三頭政治の一角を担っていたクラッススが、東方遠征を実施。
彼はパルティアを攻撃し、名声と財産を得ようとしました。
しかし、パルティアンショット(退却するふりをしながら後方へ弓を射る戦法)によって、ローマ軍は撃退されました。
クラッススは、この戦いで敗死しています。

トラヤヌス帝のパルティア遠征
ローマ帝国の五賢帝時代、トラヤヌス帝とアルメニアの帰属をめぐって争いました。
パルティアは、トラヤヌス帝に敗北し、アルメニア、メソポタミア、アッシリアを奪われましたが、トラヤヌス帝の後継者のハドリアヌス帝の時代に奪還しています。

シルクロード交易で繁栄
パルティアは、西のローマ帝国と東の後漢とのシルクロードの中継貿易で繁栄しました。
後漢の班超が、ローマ帝国(大秦国)に甘英を派遣した時は、後漢がローマ帝国と直接貿易することを恐れ、妨害したといわれています。

パルティアの滅亡
その後、王族間の権力争いの中で、ペルシア地方で台頭したササン朝ペルシアによって滅ぼされました。

