不意、無(前216)惨なローマ、カンネーの戦い
第2回ポエニ戦争(第二次ポエニ戦争)で、カルタゴの将軍ハンニバルがイタリアに侵攻し、カンネーの戦い(カンナエの戦い)でローマ軍を破りました。
この記事では、カンネーの戦い(カンナエの戦い)について整理し、高校世界史で問われやすいポイントをわかりやすく解説します。
復讐を誓った将軍ハンニバル

第1回ポエニ戦争でローマに敗れたカルタゴ。
その将軍ハミルカル・バルカの息子ハンニバルは、父の遺志を継いでローマへの復讐を誓いました。
ハミルカルはイベリア半島にカルタゴ=ノウァ(新カルタゴ)を築き、そこで軍備を整え、息子ハンニバルを将軍として育てました。

第2回ポエニ戦争 ― ハンニバル戦争

前218年、成長したハンニバルは、養成した軍隊を率いてローマに進撃を開始します。
第2回ポエニ戦争の始まりです。
ハンニバルのアルプス越え

ハンニバルはアルプス山脈を越えるという大胆な作戦を決行します。
歩兵約4万、騎兵約1万、そして象の軍団を率いた― これが有名な「ハンニバルのアルプス越え」です。
過酷な行軍の末にイタリアへ到達したハンニバル軍は、次々とローマ軍を破り、南イタリアのカンネー(カンナエ)の地へ迫ります。
カンネーの戦い ― ローマ軍、壊滅(前216年)

前216年、カンネーの平原で両軍が激突。
ハンニバルは中央をあえて後退させる「包囲戦術」を採用し、数で勝るローマ軍を見事に包囲殲滅しました。
ローマ軍約7万人が戦死、あるいは捕虜になったといわれ、ローマにとって史上最悪の敗北となりました。
これをカンネーの戦い(カンナエの戦い)といいます。
ファビウスの持久戦略
大敗を喫したローマは、将軍 ファビウスのもとで、ハンニバルとの正面決戦を避ける持久戦略を採用しました。
この戦法は「ファビアン戦略」と呼ばれ、ファビウスは「ローマの盾」と称えられました。
シラクサの寝返り
カンネーの戦いでローマがカルタゴに大敗すると、翌年の前215年、ローマと同盟を結んでいたシラクサがカルタゴ側に寝返りました。
しかし、ローマは態勢を立て直し、前212年にシラクサを攻撃しました。
アルキメデスの最期

この戦いでは、学者として知られるアルキメデスが、ローマ軍の攻撃を防ぐための兵器を設計したと伝えられています。
しかし、激しい攻防戦の末、シラクサは陥落し、アルキメデスは殺害されました。
前211年、シラクサはローマの支配下に入り、属州シチリアの一部となりました。
マケドニアがカルタゴと同盟
同じころ(前215年)、ギリシアのアンティゴノス朝マケドニアの王フィリッポス5世もローマの弱体化に目をつけ、カルタゴのハンニバルと同盟を結びます。
マケドニアは、イタリア対岸のイリュリア(現在のアルバニア周辺)に侵入し、前216年、マケドニア戦争(ギリシア征服戦争)が始まります。
ローマはカルタゴとの戦争で余力がなかったため、ギリシアの同盟国を支援し、間接的にマケドニアを封じ込めました。
スピキオの抜擢
その後、ローマは軍事の才能のある若き将軍スキピオ(大スキピオ)を抜擢し、カルタゴに反撃することになります。

理解を深めるQ&A
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