91年 班超が西域都護になる

班超
語呂合わせ

杭(91)打ち、班超はんちょう西域都護さいいきとごになる

後漢の和帝わていの時代、班超はんちょう西域都護さいいきとごに任じられました。

西域都護は、西域(タリム盆地の諸国)を支配する長官のことです。

この記事では、班超の西域都護就任について整理し、高校世界史で問われやすいポイントをわかりやすく解説します。

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目次

班超とは

班超は、後漢の政治家・軍人です。

兄の班超はんちょうは、『漢書かんじょ』を編纂した歴史学者として有名な班固はんこです。

『漢書』は、前漢の歴史をまとめた歴史書です。

班超自身も若い頃は書物の書き写しで生計を立てていましたが、やがて武人の道を志すようになったと伝えられています。

西域の平定

後漢は、シルクロードの要衝である西域の支配を目指していました。

班超は73年ごろから西域に派遣され、各地のオアシス都市を外交と武力を組み合わせながら攻略していきました。

そして、91年、西域都護さいいきとごに任じられた班超はんちょうは、亀茲きじ(クチャ)に都護府を置き、西域のオアシス都市を服属させました。

甘英をローマ帝国に派遣

西域を平定した班超は、97年に部下の甘英かんえい大秦国たいしんこく(ローマ帝国)に派遣しました。

これは、後漢とローマの直接交流を目指したものでした。

パルティアの妨害

甘英は、地中海まで到達しましたが、パルティア安息)に妨害され、ローマに行き着くことはできませんでした。

パルティアは東西の中継交易で儲けていたため、後漢とローマが直接貿易するのを恐れたといわれています。

班超の帰国と晩年

班超は約30年にわたって西域に留まり、後漢の西域支配を支え続けました。

晩年には故郷への帰国を切望する上奏文を送り、102年にようやく帰国しました。

しかし帰国からほどなくして亡くなったと伝えられています。

理解を深めるQ&A

よくある質問を通して、学びをさらに深めよう!

班超が都護府を置いた都市はどこ?

亀茲きじ(クチャ)です。

班超は、西域都護の拠点として亀茲に都護府を置きました。

班超が部下の甘英をローマ帝国へ派遣しようとしたとき、妨害した国はどこ?

パルティア安息)です。

パルティアが甘英を妨害した理由は?

後漢とローマが直接つながることで、パルティアの東西の中継交易に支障をきたすことを恐れたためです。

班超の兄として知られる歴史学者は誰ですか?

班固はんこです。

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