遂に(212)与えたローマ市民権、アントニヌス勅令
ローマ帝国のカラカラ帝は、アントニヌス勅令を発布し、ローマ帝国内の全自由民にローマ市民権を与えました。
これにより、イタリアと属州の法的な区別がなくなり、帝国の一体化が進みました。
しかし、ローマ市民権の特別性が薄れた結果、地方軍団の独立傾向も強まる結果となりました。
この記事では、アントニヌス勅令について整理し、高校世界史で問われやすいポイントをわかりやすく解説します。
混迷の時代へ
五賢帝最後の皇帝マルクス=アウレリウス=アントニヌスの跡を継いだ息子コモドゥスは、暴君化し、五賢帝時代の安定が終わります。

コモドゥスが暗殺されると、皇帝の位をめぐって内乱が発生しました。
元老院の権威の失墜
この混乱の中で頭角を表し、193年に皇帝に就任したのが、セプティミウス=セウェルスです。
セウェルス帝は、多くの元老院貴族を粛清し、その財産を没収しました。
そのため、元老院の政治的権威は大きく低下し、形式的な機関へと変化しました。
その後、帝位は息子のカラカラ帝に引き継がれます。
カラカラ帝

カラカラ帝は、父の死後、弟ゲタとの共同統治を始めましたが、後にゲタを殺害し、単独支配を確立しました。
冷酷な性格で知られ、数々の粛清や軍事行動を相次いで行いました。
カラカラ浴場

カラカラ帝は、ローマに大浴場「カラカラ浴場」の建設でも有名です。
これは市民の人気取りのために作られました。
アントニヌス勅令

212年、カラカラ帝は、ローマ市民にだけ課される税をローマ帝国全土に拡大するため、アントニヌス勅令を出してローマ帝国内の全自由民にローマ市民権を与えました。
カラカラ帝は、増税による軍事力強化の必要性から、アントニヌス勅令を出したといわれています。
ローマ市民権とは
ローマ市民権は、もともと都市国家ローマの市民が持っていた特別な権利で、様々な法的保護を受けられました。
同盟市戦争で、イタリア半島全土の自由民にローマ市民権が拡大されましたが、属州には市民権のない人々が多く存在していました。

イタリア半島と属州とを区別せず
アントニヌス勅令以前は、イタリア半島出身者と属州民との間には明確な身分差がありました。
しかし、アントニヌス勅令を出して、帝国内の全自由民にローマ市民権を与えると、イタリア半島と属州との区別が大きく縮小しました。
これにより、ローマ市民にしか適用されなかった市民法は、すべての民族に適用される万民法になりました。
ローマ帝国は「すべての民がローマ市民」という新たな時代に入るのです。
カラカラ帝の最期
カラカラ帝は、217年、パルティア遠征中に部下の近衛兵に暗殺されます。
近衛兵の親族が無実の罪で処罰されたことへの復讐が原因と考えられています。
地方軍団の暴走へ
ローマ市民権の普及は副作用も生みました。
アントニヌス勅令によって、イタリアの権威が低下すると、地方の軍団の地位も相対的に高まりました。
これが、のちに地方軍団が勝手に皇帝を擁立する軍人皇帝時代を引き起こすことになります。

理解を深めるQ&A
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