前1050年 西周の成立

周の武王
周の武王
語呂合わせ

いんを困(前1050)らす、西周せいしゅうの成立

周の武王ぶおうは、牧野ぼくやの戦いで殷の紂王ちゅうおうを討ち、しゅう王朝(西周せいしゅう)をつくりました。

都は、鎬京こうけい(現在の西安)です。

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殷周革命 ― 殷から周への易姓革命

殷の紂王
殷の紂王

周は、殷に服属していた邑の1つでしたが、周辺の異民族を討ち勢力を拡大させました。

その後、周の武王は、殷の紂王牧野の戦いで破り殷を滅ぼし、王朝(西周)をつくりました。

この殷王朝から周王朝の易姓えきせい革命のことを殷周いんしゅう革命といいます。

易姓革命とは、「天命があらたまり、天子の姓がかわる」という意味です。

周の封建制 ― 血縁関係に基づく主従関係

周では、諸侯しょこうに封土(邑)を与え、軍役や貢納の義務を負わせる封建制ほうけんせいをとりました。

諸侯には、建国に功績のあった周王室の一族や功臣などが選ばれ、世襲せしゅうとしました。

功臣とは、功績のあった臣下のことです。

西洋の封建制が、契約関係に基づく主従関係であったのに対して、周の封建制血縁関係に基づく主従関係でした。

また、王や諸侯は、けい大夫たいふという世襲の家臣にも封土を与え、関係性を強めていました。

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