前1379年 アマルナ遷都

アクエンアテンとネフェルティティ
王妃ネフェルティティ(左)とアメンホテプ4世(右)

Akhénaton et Néfertiti| Image via Louvre Museum

語呂合わせ

意味いみなく(前1379年)なる、アマルナ遷都せんと

エジプトの新王国時代 第18王朝の10代目の王、アメンホテプ4世イクナートン)は、神官の政治介入を避けるため、テーベからアマルナテル=エル=アマルナ)に遷都せんとしました。

この記事では、アメンホテプ4世(イクナートン)の行った宗教改革とアマルナ遷都について整理し、高校世界史で問われやすいポイントをわかりやすく解説します。

目次

アモン神官の勢力拡大

トトメス3世の時代、対外遠征で連戦連勝が続くと、エジプトの首都テーベの守護神であるアモンアメン)への寄進が増え続けました。それに伴い、アモンに仕える神官の勢力も拡大します。

アモンとは

アモンアメン)は、テーベの守護神でエジプトの多神教信仰の中心でした。新王国時代になると、太陽神ラーと同一化され、アモン=ラーアメン=ラー)となります。

宗教改革「アマルナ革命」

アメンホテプ4世は、従来の神々アモン=ラーを奉じるテーベの神官の政治介入を嫌い、アマルナ革命と呼ばれる宗教改革を行いました。

世界初の一神教「アトン信仰」

アトンを崇拝するイクナートン
アトンを崇拝するアメンホテプ4世

従来のアモン=ラーの信仰を禁じるとともに、新たに唯一神として太陽神アトンの信仰を強制しました。唯一神を信仰するアトン信仰は、世界初の一神教と言われています。

多神教とは複数の神を信仰する宗教のこと、一神教とは一つの神のみを信仰する宗教のことです。

ユダヤ教への影響

アトン信仰は、唯一神ヤハウェへの信仰を説くユダヤ教に影響を与えたといわれています。

アマルナ遷都

テーベの神官から離れるため、アマルナテル=エル=アマルナ)へ遷都を断行しました。アマルナは、アケト=アテン(アテンの地平線の意味)と命名されました。

アマルナは、メンフィスとテーベの中間の場所にあります。

アメンホテプからイクナートンへ

アメンホテプ4世
アメンホテプ4世(イクナートン)

アメンホテプ4世は、アモンを讃える「アモンの喜び」という意味のアメンホテプという名を捨て、「アトンに有益なる者」という意味のイクナートンアクエンアテン)という名前に改名しました。

アマルナ美術

ネフェルティティの胸像
ネフェルティティの胸像

Philip Pikart, CC BY-SA 3.0, via Wikimedia Commons

宗教改革の影響を受けて伝統にとらわれない写実的な美術が現れました。これをアマルナ美術といいます。アメンホテプ4世の妃であるネフェルティティの胸像はアマルナ美術の代表作として知られています。

イクナートンの急死と改革の終焉

イクナートンが30代で急死すると、アマルナ革命は否定されます。

ツタンカーメン王の即位

ツタンカーメン
ツタンカーメンの黄金のマスク

イクナートンの死後、息子のツタンカーメンがわずか9歳で即位します。それに伴い守旧派が力を取り戻し、最高神はアモン=ラーに戻され、多神教が復活します。また、都はメンフィスに遷され、のちに、テーベに戻ることになります。

ツタンカーメンの墓は、20世紀に王家の谷で発見され、黄金のマスクなどが発掘されました。

混乱の時代へ

その後、ツタンカーメンが18歳の若さで亡くなると、後継者が定まらず、エジプトは混乱の時代が始まります。

アマルナ革命後の混乱を乗り越え、エジプトが勢力を取り戻すのはラメセス2世の時代になります。

関連年表

エジプト第一王朝の成立からプトレマイオス朝エジプトの滅亡までの歴史は、次の通りです。

スクロールできます
年号出来事
前3000年頃エジプト第一王朝の成立(上下エジプトの統一)
前2686年頃エジプト古王国の成立
前2560年頃クフ王のギザの大ピラミッドが完成
前2040年頃エジプト中王国の成立
前1700年頃異民族ヒクソスの侵入
前1550年頃エジプト新王国の成立
前1504年トトメス3世の親征
前1379年アメンホテプ4世がアマルナへ遷都
前1333年ツタンカーメンの即位
前1286年カデシュの戦い
前663年アッシリアがエジプトを征服する
前612年アッシリアが滅び、四王国に分裂する
前525年アケメネス朝ペルシアがエジプトを征服する
前332年アレクサンドロス大王がエジプトを占領
前305年プトレマイオス朝エジプトの成立
前31年アクティウムの海戦
前30年プトレマイオス朝エジプトの滅亡
目次